愛し愛され
しばらく振り続けた雨が止み
夷陵での戦は始まった
幕舎の外が騒がしい、戦の最中に静かになるということもあるわけないのだが。
ここは本陣よりも後手にあるからここまで騒がしいのは気になる。
もしかしてと思った矢先に侍女の一人が外で情報を収集して来た。
「姫、劉備殿が深手を負って本陣に下がった模様」
「・・・そう、そろそろ行かないとね」
側に控えていた侍女の二人が尚香の後に続いて立ち上がる。
侍女の数は五人以上居るのが常だが、今回の戦に限ってまだ年若い侍女たちはわざと置いてきた。
尚香の決心を知ったなら乱心するのが目に見えているから。
最後まで一緒にとついて来る可能性が高すぎる。
「本当について来るつもり?見たら嫌な気分になるだけだと思うわよ」
「いえ、姫様の姿を最後まで見届けるのが私どもの忠義。どうかどうか」
「・・・わかったわ。それじゃ行くわよ」
尚香達は呉軍を抜け出し、離れた河川へと向かう。
本当は自分一人だけで抜け出して、そのまま逝こうと考えていたが
長い年月を共にした侍女達にはばれてしまった。
最初は私たちも最後までお側にと言われたが、これは私個人のけじめだからと断った。
理由は他にもあるけれど、その時はそれだけで納得してくれた。
二日程前まで降り続いていた大雨の影響で河川は唸り上げているかのように
恐ろしく見えた。
それでも尚香の決心は決して揺らぐ事すらない。
真摯な表情で尚香の後をついて来た侍女の一人が「やはり私も一緒に」と言い出した。
「ううん、あなた達には大事なお願いがあるから・・・ね、これを玄徳様と兄様に渡して欲しいの」
そう言って差し出したのは翡翠が彼女の瞳とかぶるとても綺麗な耳飾。
「この手紙も兄様に渡してね、玄徳様には・・・会えたらで良いわ、尚香がこう言ってたって伝えて頂戴」
「私はあなたに出会えて幸せでした」
ね、お願いねと言うといつも同じく可愛らしく微笑んだ。
御意と言おうとした刹那、首の後ろに衝撃を感じ意識が遠のく。
「姫・・・さま?」
一人が倒れて、驚いた二人も続けて気を失う。
「・・・ごめんね、やっぱり嫌なのよ」
「あなた達は、乱世の先にある未来を見て欲しいから・・・だから絶対に生きてね」
遠のく意識に尚香の優しい声が聞こえ・・・そして激しい水音が聞こえた。
侍女達の意識が覚醒したのは僅か十数分程度だったが人の命を奪うには十分なはずで、
今更ながらに体が震え始めた。
ぼやける視線の先では陸遜の策である火矢で燃え上がった炎が見える。
「姫様?姫様!?」
急に立ち上がるとくらっとしたがそんな事にかまってはいられない。
必死に尚香の姿を探したが何処にも見当たらず、やはり逝ってしまったのかと涙が流れそうになった。
せめて亡骸を冷たい河から引き上げられればと思い河縁を探したが宵闇のせいで見つからない。
「孫権様と、劉備殿の下へ行かねば・・・姫の最後の願いを叶えるのです」
落胆する侍女達に年長の侍女が言い聞かせるように見渡す。
歩き出そうとした刹那、馬の走る音が近づいて来る、敵か野党の類かと思い身構えるが見知った顔が近づいてきた。
蜀の猛将趙雲である、彼も彼女達の姿に気づいている様子で武器をかざしてはいない。
「あなた方は奥方様の!?なぜこのような所に」
顔見知りである侍女達との遭遇に驚きを隠せない彼は、すぐに辺りを見回し始めた。
「奥方は一緒ではないのか?」
「・・・姫様は、入水されました」
「!?」
驚きは声にならずに武器を落とすという将たる者にはあり得ない形で現れた。
宵闇に遠く紅き炎が立ち上り
激しい流れの河川へは年若い命が散った
どうか、どうか、愚かだとは思わないで
私は最後まで幸せでした
<続>