岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・シリーズ『ドイツ滞在記』(佐藤勇夫)

1994年から6年間に及ぶドイツ駐在生活のあれこれの書き下ろしエッセイ



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第一話:『有給休暇6週間(30日)』
第二話:『育児休暇3年』     
第三話:『ベビーブーム』     
第四話:『原則5年を越えない』  空
第五話:『何をするの?』     
第六話:『森の音楽会』      
第七話:『夜11時からの花火大会』
第八話:『皆既日食』       

↑第○話をクリックすると、そこへ飛びます。





 私はドイツ現地法人の社長として1994年に赴任し、2000年に帰任したが、ヨ
ーロッパでのビジネス拡大という重い使命を担い、緊張する6年間であると共
にドイツの労働事情に戸惑う6年間でもあった。赴任当初は、午後4時以降に
なると街のレストランが賑わい出し、路上のテーブルでドイツ人がビールを飲
み交わし、談笑しているのを見て、「もっと真面目に働け!」と思い、育児休
暇が3年と聞き、「何と理不尽な制度だ!」と思っていた。しかし、年数が経
つにつれ、「おかしいのはどっちかな」と思うようになって来た。    







第一話: 『有給休暇6週間(30日)』


 ドイツの労働事情について十分なる知識を持って赴任した訳ではないので、
日々起こる労務問題(大袈裟ではあるが)には面食らい、彼我の差に驚くばか
りであった。例えば、週の労働時間(拘束時間)は38時間で、勿論完全週休
二日。有給休暇は年間6週間である。しかもこの休暇は未消化で流すというこ
とは出来ない仕組みになっている。週5日であるから年間30日ということに
なるが、30日とは言わず、6週間という言い方をする。このことからも休暇
の単位が1週間単位ということが覗える。基本的には残業は無しであり、もし
残業させる場合は割り増し手当てを支給するのではなく、8時間の残業で一日
の休暇を与えることとなっていた。                  

 赴任当時の会社は日本人スタッフが10名、ローカルスタッフが11名、計
21名の陣容であった。各日本人にローカルスタッフ(主に女性、所謂秘書で
ある)1名が付き業務サポートをするのである。このサポート無しには効率的
な業務は出来ない。日本人スタッフは出張が多く、留守中に入るビジネス案件
 をこのローカルスタッフが全て処理するのである。注文の受理、日本への発注、
売買に伴う金銭処理手続き、等々結構な業務である。このスタッフ全員に年間
6週間の休暇を取らせなければならないのである。休暇中のこの業務を誰がや
るのかが大問題。ローカルスタッフを二人のペアーにして相互に業務補助をや
らせるシステムにして休暇中の業務を何とか乗り切ることが出来た。しかし、
休暇を取る時期の調整には難儀なものがあった。誰もが良い季節に休みが欲し
くなる一方で、良い季節は旅行代金が高く、シーズンオフに休暇を取りたいと
いう思いもあるからである。                     
 病欠に有給休暇を充てることは無く、3日までは診断書無しで休むことが出
来、それ以上になれば医師の診断書があれば幾らでも休めるのである。これで
 有給休暇が消化される訳ではなく、何時までも有給休暇の権利が残るのである。
如何にして仕事をやらせるか、というのに悩むのが本来の姿であるが、如何に
して休暇を取らせるか、ということに悩むとは思わなかったのである。  
   休暇は概ね2週間連続で取るのが通例で、夏と冬の各2週間、春か秋に1週
間取り、6週間の休暇の大部分を消化することになる。ある夏に私の秘書が3
週間の休暇を願い出て来た。2週間に出来ないか、と言ったが、是非3週間に
したいと言われ止む無く了承した。何れ取らせなければならないので、仕方な
いかと思ったからである。ところが2週間ほど過ぎたある日その秘書から電話
があり、旅行先で怪我をし1週間動くことが出来なかった。休暇を十分に楽し
むことが出来なかったので、更に1週間帰りを延ばしたい、と言って来た。怪
我して休んだのは病欠であり、休暇の消化には当らない、という論理である。
勝手に怪我して何を言うのか、と怒ったが、どうすることも出来ず、丸々4週
間、約1ヶ月秘書不在になったのである。               
 しからば日本人スタッフはどうしていたかと言うと、土日を含め連続9日を
最長として、夏と冬に各1回の休暇で我慢して貰っていた。日本人もドイツの
労働法に従わなければならないので6週間の有給休暇を持っている。しかし、
少人数で多数の業務をカバーしなければならないので、休暇取得は権利の半分
以下に止めて貰っていた。                      

 そんな状況の時に考えさせられることが起こった。昔の日本の会社では就業
後に職場の清掃などやる光景は良く見られた。しかし、ドイツの我が社では以
前より掃除の人を雇い入れ、夕方5時頃から約1時間掃除して貰っていた。掃
 除人はドイツ人ではなく、イタリア人、スペイン人、トルコ人等が主体である。
何人かでチームを組み、順番にやって来るのである。夏休みのシーズンに何時
もの掃除人が私のところに挨拶にやって来た。カナダに3週間の休暇で行って
来る。その間の代りの掃除人を連れて来た、というのである。掃除人にはオフ
ィスの鍵を渡しているので、そのセキュリティの確保もあり紹介しに来たので
ある。                               

 その清掃人の手当ては1ヶ月500マルク(当時のレートで4万円弱)であ
る。他の事務所でも清掃人をしているので月収はもっとあるとは思うが、我々
の給与の遥かに下である。それなのにカナダに3週間の休暇旅行をするという
のである。ある程度の給料を貰うものの碌に休暇も取れずあくせく働く我々は
一体何をしているのだろうか、と頭を殴られるような思いがしたのである。
 ローカルスタッフは4時には退社する。金曜日は2時か3時には退社する。
我々は暗くなるまで事務所に居り、仕事に追われている。彼らは退社後に自分
の時間を大いに謳歌するのである。それが最初に述べた「4時からの酒盛り」
である。当初は彼らがおかしいと思ったが、日が経つに連れ、あくせく働く我
々の方がおかしいのではないかと思うようになった。          

 有給休暇でも同様である。日本に居た時には年休の消化率は極めて低く、完
全週休二日制になってからは年に数日しか年休を取らなかった。ドイツに居た
当時も日本で夏時間の導入が議論されていることは承知していたが、最近その
 話が省エネの関連から議論が再燃している。省エネからの議論は納得出来るが、
「ゆとり」との関連から言われるのには違和感がある。          

 ドイツの有給休暇6週間(30日)は行き過ぎの感もあるが、夏時間の導入
 以前に有給休暇の完全消化が本来目指すべき方向ではないかと思う次第である。

                          (2008.02.26記)

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第二話: 『育児休暇3年』


 ドイツに行って驚いたことは沢山あったが、一番驚いたのは育児休暇が3年
もあるということであった。赴任した1994年頃の日本では、公務員は別だが一
般の会社では育児休暇制度は未だ浸透していなかったと思う。そんな理解で赴
任したので、育児休暇3年を聞き大いに驚いた訳である。        

 デュッセルドルフには日本企業が多く、同じ化学会社の日本法人を訪問した
時にそこの社長から 「お宅では育児休暇を取っている秘書は 何人居られます
か? 内は今3人も居ますヨ。遣り繰りが大変ですヨ」と言われた。幸いと言
うか、赴任して2年間はそのようなことが起こらなかった。勿論女性スタッフ
が居なければそのようなことが起こらないが、第一話に書いたように赴任当初
10人ほどの女性スタッフが勤務していた。しかも殆どが若く、結婚していな
くとも同棲はしていた。先年大問題になった「生む機械」の該当者が沢山いた
のである。                             

 それがあることを契機に一気にベビーブームが到来したのである。それから
その対応に苦労したのである。このことについては第三話「ベビーブーム」に
詳しく書きたい。                          

 時系列で書くと以下のようになる。先ず女性スタッフが妊娠すればその上司
又は私のところにその事実を告げに来る。”Sato-san, I am pregnant.”それ
に対して私は“It's so nice. Congratulations!”と答えざるを得ないのは当
然である。次に「出産予定日はいつか?」と聞き、「出産休暇はいつから取る
か?」を聞くことになる。次に総務担当者と出産休暇並びに育児休暇中の補充
人員の手当てについて協議するのである。               

 ドイツでは「産前休暇」が6週間、「産後休暇」が8週間、計14週間の休
暇がある。この期間は有給休暇であり、会社は給与の支払いを満額行うのであ
 る。14週間の休暇が終わった後に育児休暇を何年取るかを協議するのである。
産後の8週間は計算出来るが、産前の6週間は予定日を基準に計算せざるを得
ないのはお判り戴けるであろう。勿論早産もあり得ることであり、一度次のよ
うな経験をしたことがある。                     

 「出産休暇」は通常の休暇とは別に取れるので、出産前にその通常休暇を取
りたいと言って来るのは容易に推測出来ることである。案の定、一人のスタッ
フがそれを言って来て、夫婦二人でベルギーに車で旅行に行くという。旅行に
出て数日して会社に電話があった。旅行先で早産してしまった、というのであ
る。母子共に問題無かったのは幸いであった。そこからが如何にも権利意識の
強い外国人、という思いをさせられた。                

 通常休暇中の早産だったので「産前休暇」の6週間を取らないまま「産後休
暇」8週間に入ることになったのである。言い分は「産前休暇の6週間を取れ
なかったので、その分を産後休暇に加え14週間の休みが欲しい」というもの
である。「さて、これは困ったゾ」ということで弁護士等に相談し、この提案
は却下することにした。日本ではどうなっているか私は良く知らない。多分、
こんな要求はしないのではないだろうか。               

 「産後休暇」8週間が終わり、ここから育児休暇が始まるのである。私の記
憶では育児休暇は年単位で申請することになって居り、1年にするか2年にす
るか3年にするかはその申請時に決めることになっている。1年の申請をし、
1年後に更にもう1年、ということは出来ないことになっていた。会社には育
児休暇中の給与支給の義務は無いが、育児休暇後の職場復帰を保証しなければ
ならない。当然育児休暇中のスタッフの補充も必要である。       

 ドイツでは従業員の解雇は難しく、雇用年数を決めての採用も難しいが、こ
の育児休暇中の代理スタッフの雇用年数はその育児休暇期間に合わせることが
出来るのである。そんな関係もあり、育児休暇期間は取得時にそれを決めるこ
とになっているのである。                      

 当初育児休暇3年を理不尽なものと理解していた。しかし、日本から届くニ
ュースの中に、親殺し、子殺しの暗いニュースが多くなり、その原因の一つと
して愛情薄い幼児期を過ごしたケースが多い、と報道されているのが気になっ
た。愛情薄く育った親が、子供の虐待をするというのである。その子供も親に
なった時に同じことをやる可能性があり、悪の循環が続くのである。   

 そこで思ったのである。育児休暇3年というのは、生まれて3年間は手元で
愛情一杯に育てなさい、ということではないだろうか、と。愛情豊かに育った
子供は親になった時に愛情豊かに子供を育てるだろう。これが数代続けば日本
 にも親殺し、子殺し、虐め、等々の問題が無くなるだろうと思った次第である。
それにはこれから50年は掛かるかもしれないけど、是非その方向に進んで欲
しいと思う。                            

 育児休暇中の給与が無いので生活は苦しくなるだろう。しかし、ドイツでは
普段から質素な暮らしをし、贅沢はしない。他人の懐具合は判らないが、育児
休暇3年を取るスタッフ(取るのは男性でも女性でも良いことになっている)
は多く、賢明なる工夫によって経済的な苦難を乗り切っているのではないだろ
うか。それ以上に育児に大きな意義を見出すと共に、愛情豊かに育てることを
誇りとしているのではないだろうか。もしかしたら義務と思っているのかもし
れない。                              

 日本でも最近は育児休暇制度が充実して来ているようであるが、経済的理由
もあり乳児の頃から保育園に乳児を預け働きに出る女性が多いようである。保
育園の充実が声高に叫ばれているが、それが本当に正しい方向であろうか。女
性の自己実現も大事である。しかし、育児、特に幼児期に愛情一杯に育てるこ
とはもっと大事なような気がする。                  

 日本もドイツ同様に育児休暇3年が普及し、親が、特に母親が3年間は子供
 を手元に置き愛情一杯に育てることが出来るようになって欲しいと思っている。
保育園の充実も大事であるが、それ以上に育児休暇3年を実現するための施策
を是非導入して欲しいと思っている。例えば、乳幼児期3年間の児童手当を厚
くするのも一案である。財源に困るであろうから現在の児童手当の期間の短縮
を行っても良いのではないだろうか。                 

 何が何でも子供は3年間母親の元で愛情一杯に育てて欲しい。「仕事を代っ
てくれる人は無限にいるが、母親の代わりは居ないのである」というのがこの
第二話の結論である。                        

 賢明なる白堊35会の会員はこの私の独断的な結論をどう思われるであろう
か。                                

                         第二話終わり。

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第三話: 『ベビーブーム』


 海外で出産するのには勇気がいることと思う。そんな事例に赴任後2年目で
遭遇することになった。宇部興産がデュッセルドルフに事務所を構えたのが昭
和35年(1960年)頃であるから、実に35年間で初めての事例である。

 宇部興産の海外勤務規程では「海外勤務は原則5年を越えない」と規定され
ている。それに従い、ほぼ5年で日本人スタッフの交代を行うことになる。こ
の辺の事情については第四話「原則5年を越えない」として書きたい。  

 赴任2年目で化学担当の日本人スタッフが帰国することになり、一人の若手
が新しく赴任することになった。小学校入学を控えた女の子がおり奥様が二人
目を妊娠中ということであった。家族の赴任は本人赴任の数ヶ月後と規定され
ているが、その赴任を奥様の出産後にするか出産前にするか、という問題が起
こった。長女の小学校の入学時期も考慮しなければならず、最終的には大きい
お腹を抱えての赴任になった。当時会社は景気が悪く海外赴任はエコノミーク
ラス使用と決められていた。この奥様もエコノミーでの赴任と人事部が言って
来た。身重のご夫人をエコノミーに乗せるのか、と人事部と喧嘩になった。紆
余曲折を経てビジネスクラスでの赴任にして貰った。大会社を標榜する会社が
身重のご夫人をエコノミークラスにしか乗せられないのは何とも情けない話し
ではないのか、というのが私の主張であった。             

 海外での出産はご本人が一番不安であったと思うし、家族も我々も心配でな
らなかった。しかし、女性は強いのである。無事女児を出産した。旦那は分娩
室に呼び込まれ、出産に立ち会うこととなった。今の日本では普通になって来
ているようだが、当時はそんな例は少なかったと思う。旦那の話によると、出
産後医者から鋏を渡されたとのことである。最初何をすれば良いか判らなかっ
たらしいが、「臍の緒を切れ」ということであったとのこと。おっかなびっく
りで切ったとのこと。                        

 この慶事がきっかけに突然ベビーブームが始まったのである。なぜそうなっ
 たのか理由は判らない。事務所に連れて来られた赤ん坊を見て、自分も欲しい、
という気持ちが芽生えたことは確かだと思う。最初の2年間はそんなことが無
かったので後半4年間に、男性スタッフの奥方の出産が2件、女性ローカルス
タッフの出産が6件、計8件の慶事があったのである。そのため後半の4年間
は常に数人の育児休暇中のスタッフを抱えることになった。       

 第二話「育児休暇3年」に記載した通り、妊娠すれば先ず上司又は私に報告
がされるのである。ある日の午前中に一人の女性スタッフが妊娠を伝えに私の
部屋に来た。当然お祝いの言葉を掛けなければならない。彼女の上司と今後の
対応を協議し、それが終わりヤレヤレと思っていた。ところが午後になり、別
の女性スタッフが私の部屋に来た。彼女は既に一児を儲けていたが、育児休暇
を取らず産後休暇の後に職場復帰していた。又、彼女にはあるプロジェクトを
任せていたが、なかなかのやり手で、大きな戦力となっていた。その彼女が
“Sato-san,I am pregnant.”と言って来たのである。何と一日に二人の女性か
ら妊娠を告げられたのである。これぞ「ガビーン」である。補充スタッフの問
題、プロジェクトを誰にやらせるか、など考えると頭が痛くなり、頭がクラク
ラして来た。                            

 話しを聞けば、二人とも予定外の妊娠のようであった。私が何か良い思いを
 して(一人はフランス美人であった)妊娠を告白されたのなら我慢も出来るが、
と不謹慎極まりない思いも抱いた。予定外であるなら何でシッカリと防御すべ
きことをしないのか、と怒りが込上げて来た。使用感溢れるドイツ製のアレで
はお互いに使う気にはならないだろうな、とも思った。これは余談である。

 その1年後位にやや年配の女性スタッフが満面の笑みで私の部屋にやって来
た。これも何と妊娠した、と言って来たのである。同棲して10年以上になる
らしいが、子供が欲しくても出来なかった、とのことであった。それが思いも
掛けず子供が出来た、非常に嬉しいと満面の笑みである。涙も浮かべていた。
 それを聞いてこちらも本当に嬉しくなって来た。「おめでとう、おめでとう!」
と握手を交わした。彼女は育児休暇は取るが職場復帰はしないと告げ、職場を
去って行った。彼女は経理担当のベテランであったが、職場復帰しないという
ことなので、後任の経理担当を最初から本格採用出来ることになり、会社とし
ては有り難いことであった。                     

 通常産前休暇までは大きなお腹を抱え出勤して来る。しかし、妊娠中には色
んなことが起こり得る。二人目を妊娠した女性スタッフは体調を崩し、出勤し
ない日が続いた。第一話で書いたが、医者の診断書があれば幾らでも休むこと
が出来る。こちらとしては出勤して貰わないと業務に差し支えるので、時々本
人とコンタクトを取り様子を伺うのである。ある時堪りかねて彼女の自宅を訪
問し、体調が良ければ出勤するように求めた。ところがである、「無理に出勤
して、お腹の子供にもしものことがあったら、Sato-san並びに会社は責任を取
ってくれるのか」との返事が返って来た。こうなるともうお手上げである。医
者の診断書を出し続けられ、殆ど出勤しないまま給料だけ払う嵌めになってし
まったのである。これは珍しいケースと思っている。一般的にドイツ人は働き
者である。                             

 育児休暇中は代理のスタッフを採用する。概ね最初は派遣会社から派遣して
貰い、3ヶ月ほど勤務状況を見て、本採用にするかどうか決めるのである。私
の会社では女性スタッフの採用条件は英語が出来ること、出来ればそれ以外に
もう1ヶ国語出来ることが望ましい、ということにしていた。従って、フラン
ス語、イタリア語、スペイン語に堪能なスタッフも居り、ビジネスに重宝して
いた。                               

 一人の派遣社員を本採用とすることを決めた。その数日後、彼女は妊娠して
いると告げて来た。聞けば妊娠3ヶ月と言うではないか。何故本採用の時にそ
れを告げなかったのか、と責めた。不誠実ではないか、と。彼女曰く、妊娠に
気が付かなかった、と。しかも同棲していた彼氏とは別れた。一人で子供を育
てる、と言うではないか。妊娠を理由に採用を取り消すことは出来ないので、
新たな育児休暇候補を抱えることとなった。これまた頭の痛いことである。
 この妊娠告白騒ぎを聞いて、若いローカルマネジャー(仮にノーマンとしよ
う)が私のところにやって来た。妊娠初期は本人にも判らないことがあるらし
いヨ、3ケ月経っていても、と言っているのである。その時は、この男は一体
何故そんなことを私のところに言いに来たのか良く飲み込めなかった。月満ち
てこのスタッフは男の子を出産した。その知らせは日本に出張中の私のところ
にもFax届でけられた。忙しかったので本文をチラリと見たが「無事男子誕生。
ノーマンよりも髪は多い」ということが書いてあった。ノーマンは若禿げで殆
ど髪は無かった。この女は何と失礼なことを書くものだ。同僚の髪の毛を引き
合いに出すとは、と訝しく思った。                  

 ドイツに戻り、会社の掲示板に張り出された本文を良く良く読んでみたら、
差出人の名前が何とその女性スタッフとノーマンの連名になっているではない
か。これはどういうことか、と早速ノーマンを呼び付け詰問した。彼曰く「実
は今まで隠していたが、彼女に同情し、自分はその子供の父親になることに決
めた。現在一緒に住んでいる」と。こちらが知らぬ間に事務所内で新しいカッ
プルが誕生していたのである。彼には彼女の育児休暇後の職場復帰は遠慮して
貰いたい、とお願いした。彼には妻子を養うに足る十分な報酬を出していたの
で、彼は納得したようだった。                    

 私の在任中に8人の子供が生まれた。既に10年以上経っているので、その
子供達も大きくなっていることと思う。育児休暇3年の制度の下、愛情一杯に
育てられたと思いたい。もう数年したらドイツに行き、どんな子供達になって
いるか会ってみたいと思っているところである。            

                         第三話終わり
                         (2008.5.8)

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第四話: 『原則5年を越えない』


 宇部興産では海外勤務の期間は「原則5年を越えない」と規定されていた。
赴任前はそれが守られていたのか、何故5年なのかは深く追求したことは無か
 った。しかし、いざ自分がその当事者になると考えざるを得ないことになった。

 赴任に際して人事部より「ウベ・ヨーロッパ(私が赴任したドイツの現地法
人)には既に6年が経過し7年目に入っている日本人スタッフがいる。8年目
に入らないように帰国させること」と厳命された。「原則5年を越えない」と
いう規定があるのにどうして7年目を迎えるスタッフが出るのかを調べると、
本人自身が滞在を希望し、日本サイドも後任の人選を本気でやらないことから
来ていることが判った。詰まりは日本サイドが後任の育成を怠っているのであ
る。                                

 海外勤務はグローバルな人材の育成という意味もあり、5年毎に新しい人材
を派遣すれば、その人材を増やして行くこと出来る。それを怠れば人材は育た
ず、数も増えなくなり企業の成長に影響が出ることになるのである。派遣され
る人材は入社10年程度の若い人が中心となるが、現地法人の社長はそれなり
に歳を食ったロートルになるのが通例である。若い時にスタッフとして海外勤
務し、ある程度の年齢になってから社長又は所長として2度目の海外勤務する
例が結構多いのであるが、私は初めての海外勤務であった。       

 7年目に入っていた日本人スタッフには中学3年の息子さんがおり、高校入
学という大きな問題を抱えていた。人事部の厳命は即帰国というものであった
が、私はこのスタッフと時間を掛けて協議し、帰国するか滞在を続けるか家族
会議を開いて決めるように要請した。滞在する場合は高校を現地校にするか息
子さんだけが日本に帰国するかという問題もあった。最終的には家族で帰国す
ることになり、息子さんも無事日本の有名高校に入学出来たので先ずはホッと
したことを覚えている。                       

 さて、何故「原則5年を越えない」ということになっているのであろうか。
私なりに考えると国内であろうと国外であろうとある部署への所属は5年が一
つの区切りであるような気がするのである。短ければ大きな成果を挙げること
なく終わってしまうような気がし、長過ぎるとマンネリになったり、好ましか
らざる弊害も起こるような気がするのである。そんなことから5年が一つの区
切りになったものと思う。特に海外の場合は子女の教育問題も絡み、その期間
には難しい判断が求められることも事実である。            

 因みに、政府関係者の場合3年が一つの区切りになっているようだ。私が赴
任した時にデュッセルドルフの領事館には盛岡一高の後輩が勤務していた。何
故それが判ったのかは今となっては定かではないが、多分領事館員とのやり取
りの中で判ったものと思う。彼とは何度か酒を酌み交わし、故郷盛岡の話で盛
り上がったものである。彼は何処かの省庁からの出向で来ており、既に3年目
に入り、そろそろ帰国というところであった。彼は「帰任が決まり慌てて習う
英会話」ということが海外派遣された公務員の中で良く言われることである、
と言って苦笑いしていた。確かに現地に来て1〜2年で流暢に英会話が出来る
ようになるのは至難の業である。そんな観点から言えば3年は短過ぎ、5年は
必要なような気がするのである。                   

 赴任1年目は現地に馴染むのが精一杯。英会話も覚束無く電話を取るのが怖
いのである。2年目から少しずつビジネスにも馴れ、面談であればビジネス交
渉も出来るようになる。3年目は電話でビジネス交渉が出来るようになり、現
地スタッフも自在に使えるようになる。4年目、5年目は油が乗り切り大いに
成果を上げて貰う期間である。                    

 従来4年目を終え5年目に入ると帰国のことが気になり仕事に身が入らない
という弊害が見えていたので、5年間は目一杯仕事をして貰い、6年目に帰国
を考え、7年目には絶対入らない、という方針を立てた。それを赴任する日本
人スタッフに明言し、日本の本社の人事部にもその旨伝えた。その方針を徹底
させることによって日本サイドでは常に後任の育成を考えざるを得ない状態に
なったのである。                          

 私が赴任した時には日本人スタッフは10人ほど居り、単純計算で行けば1
年に2名が交代する状況であった。5年の赴任期間が終わり帰国ということを
考える時期になると、もう1〜2年は継続して滞在したい、と希望を出すスタ
 ッフが必ず居るのである。しかし、私は7年目には入らないという方針を守り、
帰国させたのである。中には不満を述べ渋々帰国したスタッフが居たのも確か
である。                              

 こうして後任の新しい日本人スタッフを迎え、再び一からのスタートとなる
のである。余談であるが、派遣される日本人スタッフは原則妻帯者であり、単
身赴任は原則認められていない。それは健康上の理由から来ているのはお判り
戴けると思うが、その奥さんが赴任を渋ることが多いのである。しかし、帰国
時にはその奥さんが帰国を渋るようになるのである。現に私の場合もそうであ
った。それだけヨーロッパでの生活は魅力的ということであろう。    

 このように自分の方針を貫いた私であるが、その私自身のことについて語ら
ない訳にはいかないだろう。細かいことになるが、私は1994年3月24日
に日本を離れドイツに向かった。同日の夕刻にデュッセルドルフに到着し、翌
日の25日に事務所に初出勤したのである。丸5年経過する直前に更に1年の
勤務を希望しそれが認められた。やり遂げたい仕事が残っていたのがその大き
な理由である。2000年の新年は日本で迎えたいと思っていたが、1999
年の決算を済ましてからの帰国ということになり、2000年の新年はヨーロ
ッパで迎えざるを得なくなった。折角なので思い出に家族と共に年末年始をギ
リシャのアテネで迎えることにした。新年と共に花火が打ち上げられ、花火の
中に浮かび上がるパルテノン神殿の美しさを忘れることは出来ない。   

 決算の作業には2ケ月は掛かり、私の帰任先の決定も遅れ、あっと言う間に
2000年の3月になってしまった。このままズルズル引き伸ばしていては私
 の方針である「7年目には入らない」に背くことになる。大急ぎで帰国の準備、
後任者への引継ぎ、顧客への顔繋ぎを連日行い、3月24日に送別会、25日
に離独と決めた。1994年3月25日がドイツ勤務の初日、2000年3月
24日が最終日となり、これで何とか「7年目には入らない」という私の方針
を貫くことが出来たのである。                    

                        第四話終わり    
                       (2009年1月12日)  

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第五話: 『何をするの?』


 デュッセルドルフはメッセ(展示会)の街である。その規模は極めて大きく
ヨーロッパでも最大規模であり、幕張メッセや東京ビックサイトの数倍の大き
さがある。                             

 ここでは世界最大規模のプラスティック・ゴムの展示会や射出成型機・鋳造
機の展示会が3年に一度の頻度で開催され、宇部興産ではこの展示会にはブー
スを設けて製品展示を行っていた。それ以外にも毎月のように色んな展示会が
開催されており、全世界から多数の関係者が来訪するのである。そのためメッ
セ期間中はホテルの宿泊料金が通常料金の3倍から6倍にもなり、当初理不尽
 なことと怒りを覚えたものである。日本では考えられないことである。しかし、
それはそれでヨーロッパでの常識であり、対応せざるを得ず、メッセ終了後に
数年後のメッセのためにホテル予約するのである。日本からの出張者はメッセ
期間を通じて延べ人数は数十人にもなるのでかなりの数の部屋を確保するが、
先行予約は前金ではあるが通常料金の2倍程度で済むので止むを得ないことと
割り切っていた。                          

 私が赴任して3ケ月ほどで射出成型機・鋳造機の展示会があり、宇部興産で
も展示ブースを持ち、日本から説明者として数人の技術屋がやって来た。丁度
その時期に私の家族(家内と高校2年生の次女)がドイツに赴任してくること
になっていた。技術屋は展示会開始の数日前にデュッセルドルフに来てブース
の準備をしていた。展示会開始の当日の朝にスタッフから電話があり、技術屋
の一人がホテルで倒れて救急車で病院に運ばれたと言うではないか。   

 慌てて病院に駆け付けると何と「胃潰瘍」とのこと。医者の説明では「何と
か薬で治療を行い、手術しなくても良いようにしたい」とのことであった。2
日程の入院で薬の効果が出て胃からの出血は収まり、これで大事にならなくて
済んだと安堵した。彼は技術のキーマンであり、彼の不在はビジネスに関わる
ということでピンチヒッターが日本とアメリカからやって来て、展示会の方は
なんとかなりそうであった。                     

 そんな状況の中、私の家族がデュッセルドルフに到着した。借り上げた家は
6階建てのマンションの3階。広さは140平米の3LDK。社長宅として社
 員が家族と共に集まれるようにと広いリビング・ダイニングがある家を選んだ。
日本からの荷物は家族の到着の前日にやっと配送されることになったが、当日
になって近所で第二次世界大戦の不発弾が見付かり、処理のためマンションの
ある一帯は立ち入り禁止になってしまった。右往左往の末の荷物配送になった
が、前任者から引き継いだ家具類、事前に買い込んだ布団などはそれ以前に運
び込んでいたので、何とか生活は出来るような状態にはなっていた。   

  家内と娘は日本の家の倍はある広さと環境の良さに満足したようではあった。
一夜明け暫く振りの家族と共にする朝食を楽しんでいたら、突然の電話。入院
していた出張者が再度胃からの出血があり、手術の必要がある、という連絡で
あった。これは大変だ。本来この日は家族に市内を見せ、路面電車の切符の買
い方、乗り方、買い物の場所、買い方などを説明し、娘が通う高校まで連れて
行く予定であった。緊急事態なので、電車の乗り方だけを説明し、二人だけで
歩いて呉れるように頼み、直ぐに病院に駆け付けた。          

 いざ手術ということになると彼の家族(奥様)の了解も必要であり、場合に
よってはデュッセルドルフまで来て貰う必要もある。急いで彼の家に電話し、
状況を説明し、奥様に来て貰えるか確認。奥様からは子供達が小さいのでドイ
ツには行けない。本人の希望を聞いた上で対応して欲しい、全ては会社に(詰
まりは責任者である私に)お任せしたい、ということであった。早速本人の希
望を確認し、翌日手術することになった。               

 翌日朝から会社の総務担当の若い男と共に病院に行き、手術が始まるのを待
った。病院のスタッフに手術の際には手術室の側で待機したい、と希望を述べ
た。奥様から任されているので、当然のことである。ところがそのスタッフか
ら思いも掛けない言葉が返って来た。「何をするの?」と。「手術が終わった
ら連絡するので、会社に帰りなさい」と強く言うのである。こちらとしては万
一のことが起こった時に会社の関係者が側に誰も居なかったでは申し開きが出
来ない。再度待機を申し入れたがそのスタッフもかなり強硬で、帰りなさいの
一点張りである。                          

 「貴方達は側にいて一体何をするの?」、「何もすることがないでしょう。
それよりも会社に帰って仕事をしていなさい」と。こちらも必死である。万が
一の時を考え、粘りに粘った。勿論手術を受ける彼のことを心配してのことで
あるが、一方では我々の自己保身であることも確かであった。最後はそのスタ
ッフも折れ、「そこまで言うのであれば勝手にしなさい。玄関ロビーででも待
っていなさい。手術が終わったら連絡します」ということになった。総務担当
の若い男と二人で玄関脇のロビーで手術の終わるのを待った。3時間か4時間
 であったと思う。確かに「何をするの?」と言われる通り何もすることが無い。
ただ手術の終わるのを待つのみであった。勿論手術の成功は祈っていた。 

 ドイツ人は極めて合理的な発想をし、付加価値を生み出さないようなことは
 嫌うのである。ドイツ人に限らず誰でも無駄な仕事はしたくないものであるが、
私の経験からすればドイツ人はその傾向が強いような気がするのである。それ
をある小さなトラブルから実感することになった。ロンドン事務所から転勤し
て来た日本人スタッフがローカルスタッフに手紙の清書(手書き原稿をタイプ
アップする)を頼んだのである。当初は黙って清書していたらしいが、回数が
重なるにつれ不満を私のところに言って来たのである。言い分を要約すると
「単なる清書は付加価値も無く、自分の能力の向上にも繋がらない」というこ
とになるようだ。私もその言い分には納得する部分もあったので、その日本人
スタッフを呼び、事情を説明し、「口述筆記させる場合は別であるが、どうせ
手書き原稿を作るのであるから、直接ワープロに打ち込み手紙は自分で作成す
るように」と申し渡した。「ロンドンでは秘書に清書させていた」と不満げで
あったが、無駄と思われる作業が無くなり一件落着となった。ロンドンでの違
いには採用時の 「Job Description」(業務内容の詳細取り決め)の中身にも
 起因すると思うが、ドイツ人の合理的な考え方も背景にあり、「何をするの?」
も同様な背景から来るものと思うのである。              

 手術が終わり、例のスタッフが玄関ロビーで待つ我々を呼びに来た。執刀医
から「手術は成功裏に終わった。コイン大の潰瘍があり、処置をした。もう問
題はないので安心してくれ」と説明があった。私から「潰瘍は1ケ所だけだっ
たのか?」と聞いたら、執刀医は笑いながら「1ケあれば十分だ」と答えた。
これで手術は無事終わり、病院より3週間の静養が必要と言われ、病院で2週
間、ホテルで1週間を過ごしたと思う。勿論手術が無事終わったことは日本の
奥様に伝え、安心して貰ったのは言うまでもない。           

 最後の問題はどうやって日本に帰国させるかということだった。奥様か家族
の何方かがドイツまで迎えに来て呉れれば良いのであるが、それは不可能であ
った。ドイツの事務所の誰かが付き添って日本に送り届けることも考えたが、
皆多忙でそれも出来ない。そこで日本航空に病人移送サービスがあるかどうか
尋ねたら、あるとの返事が返って来た。料金が嵩むがそんなことを言っておら
れない。直ぐに頼んだ。                       

 日本航空の東京便はフランクフルトから出ており、デュッセルドルフからは
バスで連絡していた。そのバスがホテル日航前から出る。乗客はホテルのロビ
ーに集合し、バスに乗り込むのである。胃潰瘍から回復した彼はとても元気に
なり、自分で歩くことが出来るまでになっていた。ホテルのロビーで必要な手
続きをしていざバスに乗り込もうとしたら、日本航空の職員より「病人は車椅
子に乗って貰う規則になっているので、車椅子に乗って欲しい」と言われた。
彼は大分抵抗していたが、規則は規則と言われ、照れ笑いしながらロビーで車
椅子に乗り込み、長い通路を通りバスに乗り込んだ。事務所の関係者と共にバ
スを見送り、1ケ月に及ぶ胃潰瘍騒動はやっと終わったのである。    

                        第五話終わり    
                      (2009年 1月20日)   

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第六話: 『森の音楽会』


 デュッセルドルフで私の住んでいた地区は、盛岡で言えば愛宕山か岩山の麓
の山岸とか加賀野、ということになる。山の高さから言えば愛宕山程度だが、
山の大きさから言えば岩山ということになるだろう。かなり広い規模で森林が
続き、遊歩道もあり、乗馬クラブの馬の道も、サイクリングロードもあった。

  家から15分ほど歩けばその山(丘陵と言った方が良いかもしれないけれど)
の麓に着き、20〜30分歩けば山の一番高い地点に着き、かなり広い平坦な
土地が広がっている。畑もあり、森林も所々に見える。週末や、夏場の日の長
い時には会社から帰ってからこの山を家内と共に良く散歩していた。冬場は防
寒装備を完全にして、散歩を続けていた。ドイツ人は散歩が好きで、多くの人
達が散歩している。ご夫婦で腕を組みながらの散歩が多く、我が夫婦も当然腕
を組んでいた。当初は恥ずかしいやら、決まりが悪いやらで抵抗があったが、
周りが全員腕を組んで歩いているので、自然と腕を組むようになった。組んで
いない方が寧ろ違和感を覚えるようになるので不思議なものである。馬に跨っ
たグループとも何度も擦れ違った。                  

 こんな散歩を続けている間に、森の中にホテルやレストランがあることを知
り、時々そこのレストランで食事もしていた。ホテルから少し奥に進んだら、
柵で囲まれたかなり広い緑豊かな平坦地があり、遠くにはスタンドのようなも
のも見えた。近くを散歩しているドイツ人にここは何であるかを尋ねたら、競
馬の騎手のような真似をしながら「競馬場だよ」と答えて呉れた。こんな近い
ところに競馬場もあるのだ、と驚いた。山の上の森に囲まれた競馬場というこ
とになる。                             

 デュッセルに赴任して1年余り過ぎた5月末の週末に同じマンションに住む
ドイツ人夫妻から「森の音楽会」への誘いを受けた。場所は近くの山の上にあ
る競馬場だという。折角の誘いであるので、家内と一緒に行くことにした。家
から一緒に40分ほど歩いて夕方4時頃には競馬場に着いた。入場券を買って
中に入った途端、数人の男女に取り囲まれ、鼻の頭や頬っぺたに、赤や黄色や
緑色の絵の具を塗られたのである。当然、家内もドイツ人夫妻も顔に絵の具を
塗られ、お互いに顔を見合わせてその可笑しさに笑いが止まらなかった。周り
の人達を見てみると思い思いに仮装しており、顔には色とりどりの絵の具が塗
られ、中には中世の貴族の服装をしている人達も居た。更には鳴子のような道
具も渡された。くるくる振り回すと音が出る仕組みのものである。騒音を出す
ような道具を渡されるとは一体どんな音楽会であろうかと期待も高まった。

 スタンド前のコースにオーケストラの特設の舞台が置かれ、観客はスタンド
並びにそこに続く芝生に陣取っている。我々も芝生の上の折り畳み椅子に座る
 ことにした。演奏は5時頃から始まった。5月末なので日は未だ高く、明るい。
指揮者はドイツでも有名な指揮者であったが、名前は忘れた。演奏の合間にオ
ーケストラの団員の紹介があり、各国から選ばれた演奏家が集っているとのこ
とで、日本人演奏家も3人ほど居た。総勢で100名近かったであろうか、大
人数のオーケストラであった。                    

 演奏曲目の記憶は余り無いが、クラシックが主で、ダンス曲もあった。ダン
ス曲に合わせて彼方此方で踊りが始まり、中世の貴族の衣装を着たグループの
ダンスは極めて印象的であった。テンポの良い曲目では手渡された鳴子様の物
を振り回し、音を出しながら音楽を楽しんだのである。1時間半ほどの演奏で
前半が終わり、1時間弱の休憩となる。この休憩時間にビール、ワイン、シャ
 ンパンを飲み、ソーセージを食べるのである。多分日本酒は無かったと思うが、
アルコールが入るので一層盛り上がる。                

 後半の演奏が始まり、1時間半ほどの演奏の最後が「威風堂々」であった。
この曲に合わせて用意した小さな花火に火を点け、振り回すのである。その数
は物凄く、しかも空も薄暗くなり始め、演奏に合わせて揺れる花火の火が夜空
 に浮かび上がり本当に美しいものだった。最高の盛り上がりで演奏は終了した。
 当然アンコールの拍手と叫びが鳴り止まない。3曲ほどのアンコールが終わり、
主催者側からの挨拶と花束の贈呈があった。ここで演奏会が終了するのが普通
である。しかし、この時は違った。                  

 アンコールの声が鳴り止まないのである。指揮者もアルコールが入っていた
のであろうか、「もっと聞きたいか!」と大声で叫んだのである。当然全員が
「聞きたい!」の大合唱。これでアンコールは延々と続き、盛り上がる一方で
ある。時間は10時を過ぎ、夜もトップリと更けた。堪りかねた主催者側が再
び舞台に上がり、「ここは鳥獣保護区である。夜遅くまで騒ぐと、動物達や鳥
達が眠れない。生まれたばかりの雛が驚いて巣から落ちるかもしれない。もう
 終わりにしよう!」と叫んだのである。これでやっとアンコールの声が収まり、
最後の1曲が演奏され、長かった森の音楽会も終わりを迎えたのである。時は
既に夜11時近くになっていた。                   

 このような音楽会は日本では経験が無く、生活を楽しむドイツの人達を羨ま
しく思った。ドイツの主要都市には音楽堂、オペラハウス、バレー演舞場など
の文化施設が必ずあり、日々質素に過ごすドイツ人がこのような施設で芸術に
容易に触れることが出来るようになっている。それ以上にドイツの人達がそれ
らの芸術に触れ、生活を豊かに楽しもうとしている強い思いを感じずには居ら
れなかった。我々もそのお零れに預かったのであるが、日本でも同様な施設が
充実されるだけでなく、それらを楽しみ、生活を豊かにしようとする日が来れ
ば良いなと思いながら楽しかった「森の音楽会」の一夜が終わったのである。

                          第六話終わり    
                       (2009年 2月 9日)  

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第七話: 『夜11時からの花火大会』

 デュッセルドルはドイツの中西部に位置する人口約60万人のドイツ第5位
の中核都市で、街中をライン川が悠々と流れる緑豊かな街である。私が赴任し
た1994年頃の日本人は約6千人で総人口の1%を占め、日本人並びに日本企業
が支払う税金はデュッセルドルフ市の税収の10%を占めると言われていた。
日本人学校(幼稚園、小学校、中学校)があり、日本食料品店、日本食レスト
ランも多く、日本人には極めて住み易い街である。           

 緯度は北緯51度13分で盛岡(北緯39度42分)より遥かに北で、樺太
 のユジノサハリンスクの一寸北に位置している。そのため夏は極めて日が長く、
冬はその逆で日が極めて短いのである。そのお蔭で日本では経験し得ないこと
が多くある。夏時間(3月末から9月末まで時計を1時間進める)のせいもあ
るが、日が最も長い時で日が暮れるのが夜11時少し前である。     

 日本では明るい内に会社を出たことは無かったが、ドイツでは夏場は日が長
く、極めて明るい内に会社を出ることになり、当初は違和感を覚えた。家に帰
って暗くなるまで6、7時間過ごすことになり、一日が2回ある感じである。
金曜日はフレックスタイムの拘束時間を14時までとしていたので、15時に
仕事を切り上げゴルフに出掛けたこともある。会社を引けてからでもワンラウ
ンド余裕を持ってプレイ出来るのである。その代わり、冬場は日が短く、長い
暗い時間を過ごすことになる。                    

 7月下旬に花火大会があるということで、取引のある日系商社から夫婦で招
待を受けた。ライン川に浮かぶ観光船に乗り、船上から花火を鑑賞するという
趣向である。ライン川は水量も豊富で物流の大事な役割を担っている。大小の
貨物船、観光船が行き交い、流石の北上川も雫石川も中津川もその水量、大き
さには敵わない。ライン川はスイスに端を発し、ドイツとフランスの国境付近
を北上し、ドイツ国内を流れ、コブレンツ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ
を通り、オランダのロッテルダムで北海に注ぐ、全長1320キロ(ドイツ国
内約700キロ)の大河である。                   

  観光船はライン川を上り、下りし、ライン川沿いの景色を楽しませて呉れる。
運行距離の長いものはライン川観光で有名なマインツからデュッセルドルフま
で約250キロを結んでいるものもある。「ライン川下り」は経験された方も
多いと思うが、マインツからコブレンツの間は「ロマンチック・ライン」とも
言われ、船上から数多くの古城を楽しむことが出来、有名なローレライも見る
ことが出来る。余談であるが「ヨーロッパ三大ガッカリ」というものがある。
その中の一つが「ローレライ」であり、一つがベルギー(ブラッセル)の「小便
小僧」、一つがデンマーク(コペンハーゲン)の「人魚姫」である。実際見て
みると、「エッ、こんなものなの!」と期待を裏切られてガッカリする、とい
 うほどの意味であるが、ローレライはそれなりに印象に残ると私は思っており、
最初見た時にガッカリはしなかった。                 

 夕方(日本の感覚では夜と言うべきであろう)8時過ぎにデュッセルドルフ
の旧市街地である「アルト・シュタット」の岸壁から船に乗り込むのである。
その日は20、30人が乗れば一杯になる小型の観光船から2〜300人が乗
れる大型船が集い、多くの人達が船に乗り込む。私が乗った船は50人乗りほ
どのものであった。船には沢山のドイツ料理や飲み物が用意されており、談笑
しながらそれを楽しむのである。船はアルト・シュタットを中心に川を何回も
上下し、川沿いの景色を楽しむのである。船上から見る街並みは美しく、頬を
打つ川風も心地好い。ワイングラスを片手に持ち最高の気分である。   

 夜10時半を過ぎて日が暮れ始める。しかし、花火を打ち上げられるような
暗さでは無い。10時45分過ぎて薄暗くなり、11時になってやっと花火大
会が始まるのである。日本ではあり得ない時間での花火大会である。これは緯
度の高いことがもたらすもので、日本では経験し得ないことである。花火は船
着場の反対側の川原から打ち上げられ、日本のように華麗で豪華なものとは言
い難いが、それなりに美しいものである。しかし、時間は20〜30分程度で
終わり、日本のように1時間も2時間も続くことは無い。11時開始なので2
時間も続けられても大変である。船上で3時間近くドイツ料理やビール、ワイ
ンなどを楽しみ、短い時間ではあるが船上から眺める花火はとても美しく、印
象に残るものであった。                       

 この時は船上からの花火見物であったが、通常は陸上から眺めていた。日本
では、夏場に何回も花火大会があり、その都度楽しむことが出来る。現在私の
住むこの地区でも同時に彼方此方で花火大会があり、マンションから遠くの花
火も楽しむことが出来る。しかし、デュッセルドルフではこの1回切りで、夏
場に何回も楽しむことは出来ない。その代わり、大晦日の夜、新年と共に街中
の彼方此方で小型の打上花火(高さが精々20メートル)が上がり、新年を祝
うのである。それは庭先や道路上で上げるもので、住宅街でもその花火を楽し
むことが出来る。特にライン川に掛かる橋の上から花火を上げる人が多く、花
火を上げながらシャンパンを抜き、大いに盛り上がって新年を祝うのである。
これは日本では見られない光景と思う。ドイツでの花火の9割はこの一日で消
費されると言われていた。                      

 船上で楽しむ花火大会は、会社の取引先の接待に使われたり、従業員の慰労
会としても使われていた。私も会社の行事として従業員とその家族を招待し、
小型の観光船を借り切って花火大会を楽しむことを計画した。総勢で50名ほ
 どになるが、観光船会社と交渉した結果、予算的には何とかなりそうであった。
日本人スタッフは大賛成であったが、ローカルスタッフ(現地採用の従業員)
からは意外にも前向きな返事が貰えず、実現には至らなかった。クリスマスパ
ーティーには喜んで出て来るのに不思議に思ったが、夜11時にならないと花
火が上がらないということが影響したのかもしれない。日が長いことで経験出
来た残念な計画であった。                      

                           第七話終わり 
                           (2009.02.17)

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第八話: 『皆既日食』


 この一文を今は亡き大内靖君に捧げます。              

 7月22日に奄美大島等で皆既日食が見られる。日本で見られるのは46年
振りとのことである。大内靖君は高校2年時の昭和33年(1958年)4月19
日に八丈島まで金環食を見に行ったそうだ。その時彼が撮った連続写真を先日
白堊35会のホームページで見ることが出来た。彼が健在であればきっと観測
に行ったであろうと思い、私の皆既日食体験を記し、彼に捧げたいと思う。

 又、次に日本で見られるのは2035年9月2日、北陸・北関東で、とのことで
 ある。この日に白堊35会を開催し、彼を偲ぶというのは良い企画とは思うが、
何しろ26年後のことであり、皆94歳になっている筈だ。私自身94歳まで
生き延びる自信は無いが、出来ることなら全員で大内靖君を偲びながら皆既日
食を楽しみたいものである。                     

 1998年の暮れ頃に「来年はヨーロッパで皆既日食が見られるらしい」という
話を聞き、具体的な日時、場所を調べ始めた。多忙であったこともあり、なか
なか的確な情報が得られず数ヶ月が経ってしまった。5月頃になり現地の新聞
や日本からの新聞で具体的な情報が揃った。日時は1999年8月11日、場所は
ヨーロッパから西アジアに渡るラインで、皆既日食は9時半頃に北大西洋上で
始まり、イギリスの西南端をかすめ、ドーバー海峡を渡り、フランスに上陸。
ヨーロッパの中央部、フランスのパリの北東を通り、ドイツのミュンヘン、オ
ーストリアのザルツブルグ、ハンガリーを通過し、ルーマニア、ブルガリア、
トルコ、シリア、イラク、イラン、パキスタン、インドへと移動するとのこと
であった。かなりの広範囲に渡る地域である。             

 デュッセルドルフから行くのであるから、フランスとドイツの国境付近が良
いのではないかと、更に詳細を調べた。その結果ストラスブールからドイツの
ミュンヘンを結んだラインが好適であることが判り、ストラスブールに行くこ
とに決めた。ストラスブールであれば列車を乗り継ぎ4時間程度で行くことが
出来る。会社の若者二人を誘うことにした。社長命令を出した訳ではないが、
若者二人は貴重な体験になるということで喜んで同行の意思を示した。急いで
ホテルの手配をし、混雑が予想されたが幸い予約が出来た。これで当日を待つ
だけとなった。                           

 そんな折に日本に残している二人の娘達から連絡があった。長女は社会人、
次女は大学生であったが、夏休みを利用しヨーロッパに旅行したい、と。今回
の目的はフランスのモンサンミッシェル訪問とロワール地方の古城巡りとのこ
と。家内もこれにジョインし、母娘三人で旅行するという。モンサンミッシェ
ルは私も行ってみたかったので、その部分だけは同行することにした。すると
皆既日食旅行との調整が必要になり、私は若者二人より一足早くデュッセルド
ルフを離れ、家内と共にパリに向かい、日本から来る二人の娘達と落ち合い、
モンサンミッシェルに向かった。                   

 モンサンミッシェルは人気の高い世界遺産の一つである。そこで一晩を過ご
し、海に浮かぶ荘厳な大僧院を見学した。8世紀初頭に建てられたものとのこ
とだが、こんな小島に良くもこんな大きな僧院を建てたものと感嘆した。潮の
満ち干が激しく、アクセス道路が出来るまでは干潮時に徒歩で渡ったとのこと
である。                              

 10日の昼頃にモンサンミッシェルを離れ、私はストラスブールに向かい、
家内と娘達はロワール方面に向かった。どうせなら一緒にストラスブールに向
かい、共に皆既日食を体験するべきであったと、後悔したことを覚えている。
ロワール地方でも99%の日食になることであったので、皆既日食と大差無い
か、と思い別行動にしたが、実際皆既日食を体験すると、99%と100%の
差が如何に大きいかを実感し、家内と娘達にも見せてやりたかったと今でも残
念に思っている。                          

  夕方ストラスブールのホテルでデュッセルドルフから来た二人の部下と合流。
翌日の皆既日食を酒の肴にしてフランスワインを楽しみ眠りについた。翌朝早
く目が覚め、早速天気をチェック。しかし、数日前から続いている不安定な天
気は変わっていない。急に雨になったり、晴れたりを繰り返している。太陽が
見えなければ世紀の天体ショーもオジャンである。天気を気にしながら三人で
ストラスブールの街を散策。街は日食目当ての観光客で大賑わい。誰もが天候
を気にして上を見ながら歩いている人が多い。             

 日食を見るには特別なメガネが必要である。私はホテルでメガネを買い求め
たが、劣悪品で果たして良く見えるか心配になって来た。二人の部下は会社を
出る前に色々な材料を検討し、我が社で販売しているユーピレックスフィルム
(電子基盤に使用されている)が最適であることを見出し、それを持って来て
いた。確かに良く見える。これは大発見だ、と大喜び。そのフィルムを使って
日食を観測していたら多くの観光客が集まって来て、分けて呉れとの要請があ
り、多くの人達に分けて上げた。きっと良く見えたことと思う。我が社の製品
のPRにもなり一石二鳥であった。                  

  太陽が欠け始める前に一雨あり、一抹の不安を抱いたが、幸い天気は回復し、
半分欠けるまでは良く見えていた。しかし、突然厚い雲に覆われ、俄か雨も降
り始め、全く見えなくなってしまった。それから空模様は好転せず、皆既日食
 開始の12時半が刻々と迫り、我々も諦め口調になり、元気も無くなって来た。
回りの観光客も諦め顔で空を眺めている。皆既日食の2分間だけで良い、晴れ
 て呉れと祈りながら観測地点と決めていたストラスブール駅前広場に移動した。

 駅前には多くの人達が集まり空を見上げていた。12時20分過ぎに多くの
人達の祈りが届いたのであろうか、雲が流れ来る方向に微かに青空が覗く空域
が見えて来た。それが段々と近付いて来るではないか。灰色の雲が流れ去り、
白い薄雲が広がって来て明るさが増して来た。12時28分、薄雲を通して大
きく欠けた太陽が見えて来た。広場では一斉に拍手と歓声が沸き上がった。

 その数分後、終に待ちに待ったその瞬間がやって来た。街中がスーっと暗く
なり、ピカッという光を残した後、太陽がすっぽりと月に覆われ、その輪郭と
 コロナが薄っすらと浮かび上がった。街中の街灯が一斉に走るように点き出し、
 走る光が印象的である。冷たい風もザワザワと吹き渡り、街路樹が揺れ出した。
何とも言えぬ鳥肌が立つような不気味な感じがし、古代の人が恐れ戦いたこと
が良く判る気がした。約2分間の皆既日食が続き、再びピカッという強い光
(ダイヤモンドリング)と共に太陽が顔を出し始めた。その瞬間、急に明るく
なり街灯は一斉に消えた。                      

 皆既日食後の街は、日食前の喧騒とは打って変わって静かになった。夫々に
達成感を分かち合っているのか、何とも言えない感覚に戸惑っているのか、極
めて不思議な感覚がその場を覆っていた。我々も黙りながら駅前広場を離れ、
 ホテルに戻り始めた。途中のレストランで昼食を取ることにして中に入ったが、
誰一人として言葉を交わしている人はいない。得も言われぬ感覚に囚われ、我
々も口を閉ざし、ただ頼んだ軽食を口に押し込むだけであった。それだけ皆既
日食の印象が強烈であった、ということであろう。           

 皆既日食の衝撃に心身ともに打ちのめされ、何事も語ることも無く、4時間
の満員電車に揺られデュッセルドルフに戻ったのはその日の深夜であった。こ
うして我が人生で最初にして最後であろう「皆既日食」体験は終わったのであ
る。                                

                         第八話終わり    
                         (2009.6.19)    

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岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・『「いわて桜顔」とドイツでの利き酒会』
by佐藤勇夫


小笠原淳一君ゆかりの「いわて桜顔」を持参しての利き酒



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 今年の8月にドイツに行って参りました。ホームページの掲示板で利き酒会
に持って行く酒の推薦を皆さんにお願いし、沢山の返事を貰いました。  

 その利き酒会の報告をしたいと思います。又、「いわて桜顔」に関する情報
が入りましたのでその事にも触れました。               

 添付資料: 1.「いわて桜顔」とドイツでの利き酒会        
       2.利き酒会の写真(2枚)              
       3.「桜顔酒造」の工藤社長からの礼状         
       4.「赤武酒造」の菊池さんからの礼状         

 以上を投稿しますので、ホームページへの掲載をお願いします。工藤社長か
らはホームページへの掲載の了解を得ております。菊池さんからは了解を取る
ことをしていませんが、内容的には問題無いと思いますので、宜しくお願いし
ます。                               

まずは利き酒会の写真をどうぞ!

[kikizake-01] [kikizake-02]


引き続き、佐藤勇夫さんの報告と二つの酒造会社からのお手紙です。

[Germany-kikizake-01]
[Germany-kikizake-02]


[Sakuragao-kikizake-03]


[Galaxy-kikizake-04]