在京白堊三五会 外国見聞録(村野井徹夫)


岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・『我が国際会議録』
by 村野井徹夫


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『はじめに』

 海外へ出かけるといえば、旅行代理店が組む“ツァー”を思い浮かべるところだが、私は
この種の外国旅行をしたことはなく、留学したこともない。私の海外体験といえば、大学に
勤めていたときのわずか3回の国際会議(1992年〜1994年)で論文を発表したこと
だけである。私は、そのわずか3回の外国滞在について“見聞録”を書こうとした。勿論、
 私の体験は、諸兄姉のような「海外で新しい事業を立ち上げた」とか「販路を海外に広めた」
というような景気のいい話は何もない。ただ、その3回の外国での体験とともに国際会議の
様子などにも触れようとすると、国際会議で発表することとなった経緯(いきさつ)や、渡
航する前にも国内で開催された国際会議でも2回発表したことにも触れることになり、話が
 散漫になりそうである。そこで、ツーリストとしての体験は別に切り離して書くことにした。

 私が助手として大学に勤めたのは1967年4月のことなのだが、初任給がいくらなのか
も研究費がどれだけのものなのかも全く知らずに赴任した。ましてや出張すれば職位によっ
て支払われる旅費の額が違うということも知らなかった。初めての給料日が過ぎてからだっ
たのか一ヵ月分の俸給よりも多い赴任旅費(札幌から日立へ)を受領した時は、何か得した
気分になったものだ。だが、喜びはそこまで。助手の年間の出張旅費は7千円、東京日帰り
2回がやっとの額だったと思う。研究費となると、当時は学科全体の年間予算が400万円
といった額である。これが教官(12人)・技官(4人)・学生(40人×4)の教育・研
究経費の総額なのであった。ということは、助手が自由に使える予算など無いに等しく、一
々研究室の教授にお伺いをたてなければならなかった。               
 初任給がいくらなのかは覚えてないが、下宿のおばさんに「いくら払えば良いですか?」
と訊いたら、「1万2千円でどう? 弁当いるんでしょう!」と言われたのを覚えている。
2年前にも入っていた下宿だが、そのときは弁当つくってもらって8千円。2年前に比べれ
ば5割の値上げということになるのだが、札幌にいたときの3畳間の部屋代よりも低額で、
6畳間に住んで3食保証されたのは有難かった。そういう物価の時代に勤め始めたことにな
る。                                      

 研究に従事していれば、いくつかの学会に属し研究会にも参加して発表する機会をもつこ
とになる。そのような時に研究旅費を使うのだが、年間の限度額があるために研究を活発に
行なうほどに発表の機会が増え、旅費の不足分はポケットマネーを出すことになる。その場
合は、公務出張とはならず研修扱いである。経済的裏づけのない“出張命令”は出せないの
だそうだ。                                   
 大学の研究費は、文部省から教官定員や学生定員に応じて配分される校費と研究者個人が
申請して認可されれば配分される科学研究費補助金(科研費)、それと企業や他の研究機関
からの委任経理金というのが三本柱であった。しかしながら、赴任したての頃は科研費や委
任経理金などを申請する知恵どころか、そういうものがあることさえ知らなかった。科研費
は、今でこそ外国出張にも使えるようになっているけれど、私が第一線で研究していた頃は
“旅費”の項目は、国内出張に限られていた。従って、大学の教官が海外体験をするとした
ら国費留学を目指すか私費で“研修”に出かけるか、二つに一つ。他には、どこかの財団に
海外渡航費援助を申請するという方法くらいしかなかった。国費留学も順番待ちで、毎年の
申請を一度怠るとまた最後に回されるという状況であった。私は、まずは研究実績をあげな
ければともがいていたので、いざ申請しようとした時には時期を逸していた。     

 研究費獲得については、大学の規模・学部など研究環境によっていろいろであるけれど、
わが身を振り返ってみれば反省の材料ばかりであり、今回のテーマからかけ離れた内容とな
ってしまうので、書くとしても別の機会に譲ることにしたい。            
 一つ言えることは、私にとって国際会議で論文を発表するには、旅費の工面をどうするか
が大問題であった。本来、大学の研究者は外国で発表しなくても、それ相応の学識があれば
良いわけだが、大学院設置のための教員資格審査をパスするためには、理工系の大学院なら
ば国際的にも通用する高度な研究をアピールするためにも、国際会議での発表が奨励される
ようになってきたというわけである。                       



『国内での国際会議における発表』

 私の研究分野は、半導体材料・デバイスというような半導体についての応用研究である。
企業での研究ならば特許などの関係で口頭発表であっても、発表することが一つの実績とし
て認められるのかもしれないが、大学の研究者は査読論文が掲載されて初めて研究業績とし
て認められる。一編の論文が掲載されるまでには、学会での口頭発表を積み重ねることが多
いのだが、口頭発表自体は査読を受けるわけでもないので重要視されない。ただし、特許の
点で考えれば、たとえ口頭発表であろうが公知の事実となってしまう。        
 一方、国際会議の場合、私の関係する分野では、アブストラクトを提出して発表を申し込
んでも必ずしも採択されるとは限らない上に、採択されたときは会議の2−3ヵ月前までに
論文原稿の提出を求められた。提出された原稿は査読が行われ、レフェリーのコメントと一
緒に著者のもとに返されて、必要な修正をした原稿をもって会議に臨むことになる。最終的
には国際会議の会期中にプロシーディングに掲載するかどうかまで決めることが多かった。
そのプロシーディングも国際的に通用するジャーナルと提携しており、論文の信頼性はその
ジャーナルの論文としての査読を受けることにより、ジャーナルの信頼性によって担保され
ていた。                                    

 私の海外体験は、わずか3回の国際会議で論文を発表したことだけであると最初に書いた
のだが、国際会議での発表そのものは、初渡航前年の1991年に国内で開催された二つの
 国際会議で経験した。国際会議に参加する費用は、国内でも国外でも交通費とは別に参加費・
宿泊費などに5−8万円かかってしまう。その他に、国外ならば万が一の時のために海外旅
 行傷害保険をかけるのだが、それも馬鹿にならない。その当時の私の研究費は70万円ほど、
旅費は3万円位だったと思うのだが、消耗品を購入するだけで研究費のほとんどを使い切る
ような状況では、とても国際会議の参加費や旅費を支出することはできず、以前ならば、国
内で開催される国際会議であってもそれに参加して発表することなど考えもしなかった。そ
れが、私は1987年に始まった科研費<重点領域>のプロジェクト研究の一つに研究代表
者として加わることができた。このプロジェクト自体は6年間続けられるものであったが、
成果は一年ごとに査定され、翌年も参加できるかどうかは必ずしも保証するものではない、
というものであった。幸い、私は6年連続して参加することができて、総額で1060万円
の科研費を受領した。それは、上司の顔色などを伺うことなく自由に使える研究費である。
この科研費を受領することにより研究成果が上がってきていたので、外国出張には使えない
ならば、まずは国内で開催される二つの国際会議で発表することを企てた。      

 私が初めて国際会議で発表したのは、1991年7月に名古屋で開催された“第7回気相
成長とエピタキシーに関する国際会議”(ICVGE−7)においてである。次いで9月に
 は玉野市(岡山)で開催された“第5回U−Y族化合物に関する国際会議”(U−Y−91)
で発表した。どちらも2−3年おきにアメリカ・ヨーロッパ・日本のどこかで開催される国
際会議で、この年はたまたま日本での開催が重なった。ICVGE−7での発表は、オーラ
ルセッションとポスターセッションのどちらかを参加申し込み時点で選ぶものであった。私
は、じっくり討論できるポスタープレゼンテーションを選択した―これは表向きの話であっ
て、内実は初めての国際会議での発表のため、オーラルセッションでは立ち往生することを
懸念したのだ。U−Y−91の方は、プログラム委員会がオーラルかポスターかを決定し、
私の発表はポスターセッションに指定された。                   

 この二つの国際会議の発表件数は、ICVGE−7が約250件、U−Y−91の方は約
380件で、会期は名古屋は三日間、玉野では五日間であった。私は、どちらもポスターで
の発表だったので、発表用の英文原稿を用意しなかった。結果的に、名古屋では私の発表を
聴きにきた“お客さん”は日本人ばかりで、会期中一言も英語を話さなかった―質問もしな
かったということでもあるわけだが。玉野では、ポスターの場合でもセッション会場に行く
前に全員2分間のオーラルプレゼンテーションがあったし、何人か外国人も来てくれた。
 ICVGE−7の私の発表は、最終日だった。初日は、全体会議(開会式と2件の基調講
演)の後、4会場に分かれての発表、夜は2会場でパネル討論が10時近くまで続いた。

 U−Y−91は、瀬戸大橋の本州側の袂にある瀬戸内国際海洋ホテルを会場に行われた。
宿泊も原則としてそのホテルである。五日間の会期中、初日の夜は玉野市主催のパーティが
あり、4日目の夕方には岡山理科大がスポンサーとなって高松−宇野の間の船上ディナーパ
ーティが催されるなど、豪華なものであった。                   
 この国際会議のプログラム委員の半数ほどは、私が参加している科研費のプロジェクトの
主要メンバーが入っているので、私にとってはメインの発表の場であった。論文の査読結果
は会議の2週間前に受け取った。今回は一発でパスとはいかず、条件付合格で、不備な点を
いろいろ指摘された。思い当たることばかりである。不備な点を修正した原稿をもって会議
開始前日の参加登録の際に再提出した。再提出した原稿は、事務局から査読者に渡され、論
文の著者(私)は、採否の結果について事務局からの呼び出しを待つことになった。すぐに
は結果が出るとは思わなかったけれど、私の名が掲示板に出たのは最終日だったかも知れな
い。結果は「指摘については revise されたと一応認める。英文表現はかなり問題なので、
Native Speaker's checkを必要」というレフェリーの署名入りの文書と真っ赤に直された原
稿を渡されて、「掲載決定ですが、(タイプライターで)打ち直して(会期中に)提出して
ください」というものだった。レフェリーの署名入りの文書は事務局のミス。まだカーボン
紙の時代だったので起きたミスかもしれない。著者に返される査読文書は、本来は署名の部
分がないのだが、2時間かけて打ち直した原稿と一緒にコピーして、そっと返しておいた。
私の論文のレフェリーはよく知っている人だった。                 
 論文の英文原稿は、いつもは添削してもらってから投稿するのだが、いつも添削をお願い
 しているさんに連絡がとれなくて、そのまま提出したのだったかもしれない。この論文は、
オランダで発行されている Journal of Crystal Growth というこの分野で名の通った雑
誌に掲載されるのだが、シャセイさんという年配の女性編集者が来ており、彼女が咥えタバ
コで添削をしてくれたらしい。添削に時間がかかって呼び出しが遅くなったというわけであ
 る。彼女は、この国際会議の論文の原稿を全部バッグに入れてオランダに持ち帰った。途中、
バッグを紛失しては大事(おおごと)なので、機内持ち込みということだった。    

 四日目に催された船上ディナーパーティは、本州・四国間が橋で結ばれたために廃止され
たJRの宇高連絡船の船を使っての企画である。国際会議会場のホテルから貸し切りバスで
瀬戸大橋を渡って高松に行き、乗船して宇野に戻るまでの2時間のクルーズである。乗船す
る前にバスは瀬戸大橋記念公園に立ち寄り記念館を見学した。吊橋の主塔間は1100m、
100m以上ある主塔の天辺の間の距離は足元よりも何センチだったか長いのだと岡山理科
大の先生が言っていた―地球が丸いから。                     
 この記念公園を散策しているときに、科研費仲間の他大学の先生と話をした。「岡山理科
大がこの船上ディナーパーティに何百万円も拠出するということは、学生の授業料とかをピ
ンはねしてるということなのでしょうね。」「そうなりますね。」・・・と。同じ疑問を当
の岡山理科大の先生にぶつけてみたら、「それはそうです。日本中・世界中の大学の先生や
 企業の研究者に大学の名をPRして受験者が増えたら安いもんだ、と理事長にかけあった。」
と明かされた。                                 
 船上ディナーパーティは飲み放題・喰い放題。ひとしきり飲んで喰って、船のデッキなど
あちこちでグラス片手に談論風発、楽しんだ。論文でしか名前を知らない世界の研究者とも
話すことができた。                               


Bhargava夫妻(米国)&N教授(神戸大)     NTTグループ        


『外国での国際会議における発表』

 私の海外における発表は、最初は1992年6月のマサチューセッツ工科大学(MIT)
で開催された電子材料カンファレンス(EMC)〔会期:3日間〕、次はアメリカ・ロード
アイランド洲のニューポートにあるダブルツリーホテルにおけるU−Y−93〔5日間〕、
最後は1994年7月のフライブルク(ドイツ)で開催されたICVGE−94〔6日間〕
においてであった。                               
 私の研究は、U−Y−93がピッタリの内容であるので、初渡航の照準はそれに合わせて
おり、EMCでの発表は念頭になかったのだが、科研費プロジェクトの研究会で参加を勧め
られて初渡航を一年早めることにした。 いつの場合でも問題は旅費の調達である。 最初は
NTT関連の電気通信普及財団の海外渡航費援助を申請しようとしたのだが、国際会議での
発表が確定されていることが条件となっており、期限までにアブストラクトの採択通知が届
かず、申請を諦めざるを得なかった。EMCは会期も三日間と短いし、宿泊もMITの夏休
み期間中なので、ドーミトリーが開放されて安く泊まれることが分かり、安い航空券を探し
て自費で行くことを覚悟した。ところが、他の学科の先生の委任経理金を融通してもらうこ
とができて助かった。                              
 U−Y−93のときは、茨城大学工学部の創立50周年記念事業で集めた3億円の基金の
預金利子をもって賄う海外派遣プログラムにより50万円の旅費を受領することができた。
このプログラムは、最初のうちは毎年各学科でひとり受領できたのだが、やがて、経済事情
の変化により支給される金額も逓減し、国立大学が法人化されたら基金そのものが文科省に
没収されるということで、同窓会館の増築に化けてしまった。            
 三つ目のICVGE−8では、電気通信普及財団の海外渡航費援助が認められた。この財
団の援助額は、渡航する地域によって異なっており、ヨーロッパの場合は最高額の43万円
が受領金額であった。この財団による渡航費援助は、同一人は3年に一回しか認められない
とか、同一学科で同じ国際会議にはひとりしか認めない、というような制限があった。幸い
にも、このときは学科に競合する人もなく受領することができた。この財団の援助額も、そ
の後ずいぶん少なくなっているようだ。                      

 EMCは発表件数が約170件という小ぢんまりした国際会議で、4−5会場に分かれた
けれど、全部OHPを用いてのオーラルプレゼンテーションであった。このOHPの設定に
ついては驚くことがあった。日本の学会ならば、このような装置は前日にでも学生アルバイ
トが設定して、会場責任者が動作を確認したら、会期中は会場に置きっ放しにしておくとこ
ろだが、ここではMITの職員なのか係員が開始時刻ぎりぎりに運んできて設定し、セッシ
ョンが終われば運び出すのである。これを毎日繰り返していた。発表者は、早めに行って試
してみるなどということはできないのである。それと、開始時刻も、日本ならばまずは9時
開始というところだが、EMCの開始時刻は8時20分で、午前のセッションは正午まで。
午後は13時30分に始まり、17時10分に終わる予定表になっていた。午前と午後のセ
ッションの時間は等分なのであった。午前中は2時間ちょっと仕事をして、午後は夜まで研
究室にいる生活になれた者にとっては、ちょっとしたカルチャーショックであった。  

 初めて渡航して発表したEMCのプレゼンテーションは、全発表がオーラルなので、発表
用の原稿を用意して先にも述べたさんという化学のPh.Dをもつ非常勤講師に添削をお
願いした。さんは日立研究所に勤める研究者(日本人)の奥さん(アメリカ人)である。
彼女には、それまでにも何編かの論文の原稿を添削してもらっており、専門が化学なだけに
半導体材料などの論文の添削をお願いするには貴重な人材であった。初めてお願いしたとき
は、自宅に電話してお願いしたのだが、別に謝礼については“約束”しなかった。彼女の講
義のあるときに控室に出向き、研究室に来てもらった。翌日、添削した原稿を研究室に届け
てくれたときに、熨斗袋に入れた謝礼を差し上げようとしたら、"Only thirty minutes!"と
言って受け取らなかった。そのときは、論文が発行されたときに別刷りと一緒に図書券を差
し上げた。それはポケットマネーであった。科研費を使えるようになってからはポケットマ
ネーではなく“謝礼”の額を決めて手紙で“契約”した。              
 このときの原稿は、口頭発表用なので例えば“セレン化亜鉛”のような物質名も読み方を
明確にするために、ZnSeと書かずに、zinc selenide というように標記しておいた。名
古屋や玉野で聴講した発表は、多くの人が論文のタイトルから口にしていたので、そのよう
な原稿にしたら「タイトルはチェアパーソンが紹介するので不要である」などと英文の間違
いだけでなく発表の仕方についても丁寧に直してくれた。英語の論文は、名のあるジャーナ
ルに掲載されている英文を使って“英借文”を心がけており、相当自信を持って書いたつも
りでも、いつも真っ赤に直されてしまう。定冠詞、不定冠詞、前置詞の使い方がいつまで経
っても難しい。                                 

 発表時間は申し込み時点では20分。後輩に時間を計ってもらって何回も練習したけれど
覚え切れなかったように思う。実際の発表は、朝の2番目。司会は科研費プロジェクトの班
長をしている京都大学の教授とサンタバーバラ研究センターのドクター・ルース。最初の
発表者が登壇するときに、教授が「発表は15分」と発言された。なるほど、プログラム
では討論時間を含めて20分で組んである。急にそんなこと言われても、即興で時間短縮な
んてできっこない。確か、原稿を手にしながら早口で進めるほかない、と覚悟を決めたよう
に思う。何とか進んでいって、あと5分くらいのはずのときに耳元で「あと1分でまとめて
ください」と日本語で耳打ちされた。最後の「結論と今後の課題」は慣れた人なら「ここに
書いてある通り」と端折ってしまうところだろうが、尚いっそうの早口で“読み上げて”終
わった。                                    
 発表が終われば質疑応答である。国際会議で発表と言えば、想定問答集を作るものらしい
が私はそれをしなかった。私の研究は自分自身で試料作りから始めて、測定まで自分自身の
手で行った研究なので、内容は全部把握しているという自負はあるけれど、想定問答までは
手が回らなかった、というのが実情である。いくつか質問があったがどのような質問だった
のかは覚えていない。ただ、教授が(再び耳元で)「良いですか?」と囁いたのは覚えて
いる。とにかく、発表は無事終わったのだ。                    
 後から、東工大の教授に会ったら「立派な発表でしたよ」と褒めてくれた。教授から
は「プロシーディングの原稿を出してください。Journal of Electronic Materials から出
します。既に投稿しているなら、(一旦取り下げて)改めて特集号に投稿してください。そ
れと、ルースさんがこれは二つに分けた方が良いと言っている」とのことだった。私として
は、「一回の発表で2編の論文が書ける(のはこれ幸い)」とばかりに喜んだ。帰国後2編
に分けて書き直して投稿したが、半年以上過ぎてからルースさんからファックスが届き査読
の結果は評価が最低で、このままでは掲載できない。○○日までに修正して提出すれば再考
するというものだった。確かに、応用物理学会の論文誌(英文)に既に発表した内容と重複
するところは幾分あるものの新規性を否定されては立つ瀬がない。五日くらい先の日付が指
定されていたと思う。時差と送達時間を考えたら三日しかない。ドクター・ルースは、特集
号のエディターを務めていた。私は、アメリカくんだりまで出かけて掲載不可では納得がい
かない、とばかりにサゼスチョンに従って2編に分けたとか、いろいろと抗議文を書いてフ
ァックスを送り、2編とも期限内に修正はできないと判断して、一つに書き直して修正する
ことにした。そのようにして結局は掲載に漕ぎつけた。国際郵便にも“速達”があることを
そのときに初めて知った。ちょうど良いエア・カーゴが必要なのだろうが、24時間で届け
られるらしい。まだ、インターネットなどが使えなかった頃の話である。       

 U−Y−93は1993年9月中旬に米国ロードアイランド洲のニューポートで開催され
た。このときは、大学の財団から50万円を受領することになったので、2週間ほどアメリ
カ合衆国に滞在した。最初は、この国際会議の後はヨーロッパに渡って関係する大学や企業
の研究室を見学させてもらえないかと考えた。しかし、考えてみれば私と同じような研究を
している研究者は、このニューポートに来ているはずで、ヨーロッパに行っても会えないに
違いないと考えてアメリカの研究者に何人か手紙を書き、私の予定する日に見学させて貰え
るなら“招聘状”を書いてほしいとお願いした。結果としては、アリゾナ州立大学のドクタ
ー・スクロミーだけが応じてくれた。この人は玉野(岡山)のU−Y−91に奥さん連れで
来ており写真を撮って送ってあげたことがあった。他の大学の研究者からは、一ヵ月くらい
後になって休暇中で不在であった、というような手紙が来た。他に、従弟がデトロイトにあ
る日本企業の現地法人にいたので、そこも“見学”することにした。鈴木さんや高橋さんと
違って同じ苗字ではまずいから、ボスのサインを貰ってくれるように頼んだ。     
 その“訪問記”は別に記すことにして、約2週間何回も飛行機に乗って、時差が3時間も
あるアメリカ大陸の広大さを実感した。                      

  ニューポート(RI)はボストンからバスで2時間ほどの距離のところであっただろうか。
二度目の渡航は全く別の地域なら良かったのに、と思ったものだ。最初のMITはボストン
 にあるのだし、二度目のニューポートもボストンを拠点にしなければならなかったのだから。
このときは、風光明媚な港町のダブルツリーホテルに缶詰状態での国際会議である。発表件
数はLate News Paper も含めて240件ほどであった。               
 国際会議というと、日付よりも曜日で表示するものらしいが、このときの国際会議は、日
曜日の午後に参加登録をして、月曜日の8時30分から金曜日の12時30分までの盛り沢
山な予定が組まれていた。夜も月曜日は歓迎パーティ、火曜日は特別講演(3件)、水曜日
は最新の研究成果発表(7件)、木曜日はガーデンパーティがあった。他に、木曜日の午後
はバスに乗って移動したあと船に乗って湾内クルーズである。私の発表はポスタープレゼン
テーションなのだが、発表の様子などさっぱり印象に残っていない。ポスタープレゼンテー
ションは水曜日と金曜日の16時15分から18時までそれぞれ約70件の発表だった。私
の場合、金曜日だった。2時間近くの間ずっとポスターのところにいるのではなく、70件
を半分に分けて、前半と後半のいずれかの間だけ張り付いていた気がする。このときの論文
の査読結果は条件付合格だったが、あまり厳しい注文は付けられておらず、修正した原稿を
提出したものが採択された。このときは、清書したものを帰国してから提出することになっ
た。                                      

 三度目の海外発表は、フライブルク(ドイツ)のアルベルト・ルードヴィックス大学にお
いて開催されたICVGE−8に出席したときである。1994年7月である。ここでは、
電気通信普及財団から43万円の援助を戴いたのと、円高の頃だったので資金的にはゆった
りした気分で参加することができた。フライブルクはフランクフルトから特急列車で南へ4
時間ほどの距離で、あと30分も乗っていればスイスとの国境を越えそうな場所である。後
から知ったのだが、この町はドイツ国内の環境首都となっているということで、ごみ処理問
題についても早くから取り組んでいるところであった。そういえば、街角のあちこちに大き
なポリバケツがあって、ゴミ収集車がよく走っていたなぁと思ったものだ。      
 国際会議の際の宿泊は、会期中のホテルは参加申し込みのときに事務局が紹介してくれる
ホテルを頼むのが安心できる。このICVGE−8の場合は、アブストラクトの採択通知と
一緒に、現地の旅行会社宛のホテルと鉄道の申込書が送られてきた。ホテルのランクや列車
の等級を指定して申し込み、国際会議の参加費と一緒に送金すると、チケットが旅行会社か
ら送られてきた。ホテルはフライブルクの駅から歩いて15分くらいのところにあった。駅
にホテルの案内ファイルがあって、その地図を頭に入れて歩いていった。       

 ドイツの緯度はサハリンとかなり重なっていて、フライブルクは緯度としては北海道の北
の端、稚内より280キロほど北に位置している。7月下旬のフライブルクは夜の10時こ
ろになっても外は明るく、その上、暑くて寝苦しかった。クーラーなどはホテルにも大学に
もなかった。ホテルの部屋は3階で、窓を開け放して寝たほどである。国際会議の会場も暑
くて汗を拭き拭き講演を聴いた。休憩時間には冷やしたミネラルウォーターとリンゴ酒のサ
ービスがあって、発泡性のリンゴ酒をしょっちゅう飲んでいた。           
 ICVGE−8での発表件数は、約230件。私の発表内容は、セレン化亜鉛の結晶の粒
をアルゴンまたはヘリウムまたは水素と一緒に石英ガラスに封じ込めて、1000℃位の高
温に熱した時に10℃の温度差の中で高温部分から低温部分に移動する量(輸送速度)が、
一緒に封じ込めたガスの種類と圧力によりどのように変化をするかを調べたものであった。
ここで発表内容を紹介する訳は、全く別の研究なのだがアメリカ航空宇宙局(NASA)の
研究者が、ヘリウムガスは石英管に封じ込めても1000℃位の温度では抜けてしまう、と
いう発表をこの国際会議で講演したからである。私の発表はポスタープレゼンテーションだ
ったのだが、二人のNASAの研究者が待ち構えていたかのように開始と同時に私のところ
にやってきて、「ヘリウムガスは、我々の研究では1000℃にも熱すると石英アンプルか
ら抜けてしまうのだが、この研究では輸送速度のほかに石英アンプル内の圧力が変わらなか
ったかどうかを確認したのか」というものである。私の研究は、アルゴンとヘリウムを比べ
た場合、熱伝導率がヘリウムの方が一桁大きく、そのことにより輸送速度がアルゴンの場合
より 大きいことを示したものだった。しかし、“This is a very important problem.”と
答えるだけで兜を脱がざるを得なかった。その後、ヘリウムに近い熱伝導率をもつキセノン
ガスを使って実験を繰り返した結果、熱伝導率の違いが輸送速度に影響を与えるということ
は実証できたのだが、発表をする機会もなく私は定年退職してしまった。       
 このときの論文もJournal of Crystal Growthに掲載されたのだが、発行されてから数
ヵ月してから、このジャーナルの編集局から論文の長さについてクレームが付けられた。論
文の長さは4ページ以内と規定されていたのだが、4ページ目が半分空白になったのがスペ
ースを有効に使えというものであった。この研究の輸送速度を一つ得るのには1週間ほどか
かる実験で、5年くらいかけて得られたデータもまとめるとただ1枚の図になるだけのもの
だった。論文が短いとクレームをつけられても、苦楽を共にした学生のことを思い出して忘
れられない国際会議であった。                          



『使用言語』

 私が参加した国際会議の使用言語は全て英語であった。どこの場合でも、チェアパーソン
が二人一組で司会進行を務めている。国内における国際会議で、日本人の発表のときに、た
とえ聴衆が日本人だけであってもチェアパーソンのうちのひとりは必ず外国人なので、発表
者も質問者も英語で話さなければならない。このようなことで、日本人同士がブロークンイ
ングリッシュで討論(?)する場面もあった。私は初めてのとき、若い人は下手な英語のプ
レゼンテーションなのに、度胸があるなぁと感心して聞いていたけれど、ポスター発表を選
んだことを後悔した。内容的には査読の結果、既にプロシーディングに掲載決定が出ていた
ので気楽であったのだが、ポスター発表は70分で、ポスターの場所に張り付いていること
が義務付けられきつかった。オーラルセッションの方は、討論時間も含めて1件あたり20
分。「こっちの方が楽だったなぁ」と思ったものだ。討論そのものは飲みながらの懇親会な
ど非公式の場の方が収穫が大きい。                        
 日本国内で開かれる国際会議は、日本人の発表件数が一番多い。その次がアメリカ人で、
それ以外の国籍の人も参加しているのだが、それらの人の発表を聞いた記憶があまりない。
それがアメリカやドイツでの国際会議となると、日本人も多いけれど少数派ということにな
り、いやでもいろんな国の人の発表を聴くことになる。私は外国語として学んだのは、英語
とドイツ語だけで、ロシア語を少しかじっただけなのだが、ドイツ人の英語はドイツ訛りが
あるように聞こえ、フランス人の英語は鼻にかかったフランス語風に聞こえた。それで、私
が話す英語も日本語的に聞こえているのだろうなぁ、と思ったものだ。日本語的でないよう
に話すには、イントネーションに気をつけなければ、と思っている。ただ、国際会議の場合
は、生活の場の英会話とは違うのは確かである。とはいうものの、聴く能力・話す能力が弱
くては、議論になかなか入っていけないことを痛感している。            



『お楽しみ会』

 国際会議はオーラルプレゼンテーションにせよポスタープレゼンテーションにせよ、研究
発表の場であり、情報交換の場でもある。この国際会議には家族を同伴する人も多く、中に
は子供連れの人もいた。勿論、そのような家族は国際会議の発表の場には同席することはな
いのだが、そういう同伴者のためなのか、いろいろなソーシャルプランが用意されていた。
我々研究者にとっても、朝から晩まで討論の場にいるだけでなく、そのようなソーシャルプ
ランに参加するのも楽しみの一つである。U−Y−91の時の岡山理科大学がスポンサーと
なって催された船上ディナーパーティもそのようなプランである。ただし、スポンサー付と
いうのは例外であって、多くの場合は有料であった。                

 初の渡航となった1992年のEMCはMITを会場にして開かれた。このときのソーシ
ャルプランはMITミュージアムを会場にしてのディナーパーティであった。MITは多く
のノーベル賞受賞者を輩出している大学であるが、そのようなノーベル賞に関わる展示物が
あったかどうかは定かではないが、MITミュージアムは日本の科学博物館のようなところ
であった。科学博物館の展示物を見ながら飲んだり食べたりするパーティといった風情であ
る。こんな貴重な展示物の前で、ワインやビールを片手に焼き豚やコールドビーフをスライ
スして皿に盛り付けてくれる行列に並んだりするというパーティは、日本では考えられない
と思ったものだ。ビールもいろんな銘柄があったけれど、ボストンビアがちょっと癖がある
けど、旨かった。                                

 国際会議のときのレセプションパーティは、国内でも外国でも初日の夜か前日の夜にあっ
たのだが、主催者の挨拶などの儀式があるのは日本とドイツである。アメリカでは会場に着
くと、ウェイターかウェイトレスが差し出すウィスキーグラスを受け取って、何となく始ま
ってしまっていた。“一所懸命”努力しないと食事にありつけないことになる。遠慮なんか
していたら、若い人の胃袋は1時間くらいで全部食い尽くしてしまう。        

  ニューポートでのレセプション会場は、昔・マンション、今・女子大という建物であった。
マンションと言っても日本で考えるようなものではなく、敷地だけでも数ヘクタールもある
ような本物の大邸宅である。テラスの100m先は大西洋。テラスを降りたところの水路は
 海に直接繋がっているというので、大西洋(の水)に手を触れて“感激”した。その会場で、
国防総省の研究者のドクター・パークに会った。私と同年輩であり、著書は研究室のゼミで
も使ったこともあり、名前は良く知っている研究者であった。パークさんは以前、電子技術
総合研究所(電総研)に来ていたことがあり、電総研の研究会で初めて会った。日本語がペ
ラペラなのを知って、「あっ、“パーク”というのは公園ではなく朴さんなんだ!」と知っ
た。この国際会議ではチェアパーソンを務めていたが、日本人の発表のときに、日本語で助
け舟を出したりしていた。                            
 レセプション会場で、私の知り合いのNTTの若い人が、「パークさんて、どうしてそん
 なに日本語が巧いんですか?」と訊いたら、苦笑交じりに「分かるでしょ?」と答えられた。
私の知り合いは、日本が朝鮮を統治していたことを知らなかったのかなぁ。      

[recpt]
レセプション会場のテラスで談笑。100m先は大西洋。


 ニューポートのソーシャルプログラムはクルージングであった。玉野(岡山)のような豪
華なパーティではなく、軽食喫茶というようなところで軽い食事をしながら、鏡のような穏
やかな湾内の景色を眺めながら午後のひと時、夕日が沈むまで談笑を楽しんだ。ここの港は
ヨットハーバーとなっているらしく、多くのヨットが行き交っていた。着船のときに無粋な
もの―アメリカ海軍の軍艦―が一隻、傍にいるのを見た。船の名前もU.S.Navyとも
書かれてはいなかった。                             
 東工大の教授は奥さんを同伴し、北海道工大のさんは二人の小学生のお嬢さんを連れ
ていた。夫人は、よくこの小学生たちの面倒を見ていたようだ。他に家族連れといえば、
フランスの研究者が奥さんと3歳くらいのお嬢さんを同伴していた。このフランス人の共同
研究者なのかどうかはわからないが、ひとりぽつねんと景色を眺めているフランス人の若い
女性研究者に声をかけた。この国際会議の論文だけでなく、他の論文の別刷りを送る約束を
して住所を書いてもらった。アブストラクトを見ると、所属が物理学研究所というようなと
ころなのだが、話をきくと学校(高校?)の先生のようでもあった。後から、山梨大学の先
生から、「村野井先生、パリに拠点ができましたね」と冷やかされた。後日、そのときに写
した写真と一緒に論文別刷りをいくつか送ったら、向こうからも別刷りが送られてきたのだ
が、理論的な論文で、私には歯がたたなかった。 手紙にも“私はEcole Normale Sperieure
 で先生をしています”というように書いてあるがフランス語の部分が分からない。日本でも、
今なら学位をとっても派遣社員だったり、家庭の主婦に納まっている人はざらにいるけれど
も、16−7年前のフランスでは女性が学位をもっていても然るべき地位にはつけなかった
のかもしれない。                                

可愛いパリジェンヌ    日本人グループ&Dr.Park   Dr.Deleporte    ヨット     
               (ガーデンパーティ)                      

 ICVGE−8のレセプションは、フライブルク市長主催で市庁舎で行われた。と言って
も、日立市役所や盛岡市役所のような窓口業務をしているところは全く覚えがないので、ゲ
ストハウスのようなところだったのかもしれない。尤も、ドイツにも日本のような窓口業務
があるのかどうかは知らないのだが・・・。若い市長さんが歓迎の挨拶をしていたが、ドイ
ツ語だったのだろうか、よく覚えていない。                    
 ドイツ観光といえば、旅行案内書を見るとロマンティック街道と黒い森がまず目に付くと
ころである。フライブルクは、その黒い森の入り口なのだ。そこで、木曜日の午後はバスツ
ァーの黒い森観光だった。バスガイドの使う言語で二つに分かれた。ドイツ語だけのガイド
と英独両方を話すガイドである。日本人でドイツ語だけのバスに乗った人は私の知る限りい
ない。私が乗ったバスのガイドは中年女性、英語だけでガイドしましょうかと“英語で”言
ったような気がするのだが、乗客(私たち)の反応がイマイチで、結局は英独両方でガイド
したように思う。同じことを2回ずつ切れ目なく話していたことになる。見学場所は、起源
が1093年に遡る、山の上に建てられたペーテル修道院。高校の音楽の時間に習った“僧
院の庭”を思い出させる古い修道院で、多くの壁画・天井画や分厚い本の数々をみて、キリ
スト教の(あるいは、協会の)力を感じた。当時のドイツ通貨はDMだが、バスツァーの料
金は40DM。当時は円高のころで、1DMが63円、日本円では2500円ほどだった。
ティティ湖ではコーヒーハウスでの休憩があり、私はドイツならどこに行ってもビールとい
うことにしていてビールを飲んだ。グラス一杯、5DM?              
 もう一つの“お楽しみ会”は(火曜日なのでこちらの方が先なのだが)、大聖堂でのオル
ガンコンサート(6DM)である。現代では多くのスピーカーも使っている所為かも知れな
いが、20mか30mの高い天井にこだまする宗教音楽はさながら天上から降ってくるよう
な響きで、キリスト教信者ならずとも何かひれ伏したくなるような感じを受けた。   
 最終日(金)の夜は、カンファレンスディナーがあった。そこでは、抽選により着席する
テーブルが決められ、国籍など同じグループの人が固まらないような配慮がされた。宴会の
テーブルは日本なら“松・竹・梅”などとするところだが、皆よく知っているビートルズの
曲などの出だしの部分の楽譜が札に書かれていた。私はビートルズの歌でも歌わされるのか
と思ったのだが、テーブルの名だった。日本のホテルの大広間のようにステージもあって、
ドイツの古い民族衣装を着た男女学生の歌や踊りも披露された。宴もたけなわになってきた
ら、ドイツ人研究者が傍らの女性の手を引いて踊り始めた。他に続くカップルもいなかった
けれど、私もダンスは不調法なので、後に続けられないのは残念ではあった。     


  Freiburg市長       ティティ湖         Conference dinner    大聖堂の尖塔
                                           (午後10時)



『おわりに』

 ここまで、私が参加した内外5回の国際会議について、記してきた。1994年のフライ
ブルクの後は、ずっと国際会議にはご無沙汰するようになってしまった。その後、1999
年11月に、暫くぶりにU−Y化合物に関する国際会議が日本で開かれることになり、私の
研究は既に一区切りついていたけれど、聴講するために参加した。この国際会議は京都の北
のはずれにある京都国際会議場で開かれた。科研費や国際会議でお世話になった京都大学の
 教授がカンファレンス・チェアである。つまり、この国際会議の最高責任者になっていた。
 この時の国際会議は、聴講だけのつもりで参加申し込みをしたら、2編の論文の査読を依
頼された。日本人の論文でなかったことは確かだが、どういう人のどういう論文だったかは
定かでない。当然、会期中に掲載か否かの最終決定をするはずなので、いろいろコメントを
書いた査読文書を送った。                            
 国際会議、特に外国で開催される国際会議に参加することは、大学での委員会や学科会議
のことから開放されて“研究活動”に没頭することが出来る。また、国際会議で発表するか
らには、“論文にしなければ”という“動機付け”にもなって、研究の大きな推進力になる
ことは確かであるので、定年退職してなお、旅費の工面ができれば何度でも渡航発表したい
ものだと考えてしまう。現役の研究者なら、いろいろな助成事業にアプライして海外に飛躍
する機会を捉えてほしいものだと考えている。                   

                                書き始め:2009/07/15頃
                                完  了:2009/10/11
 

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