在京白堊三五会 沖縄紀行(村野井徹夫)


岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・『沖縄紀行』by村野井

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『出 発 ま で』

 去る6月5日(金)から三泊四日の沖縄旅行をしてきた。沖縄へは2004年9月に学会
で行ったことはあるが、学会の合間に学生の運転するレンタカーに乗って海を見たり、首里
城に行って東シナ海に沈む太陽を眺めたけれど、私が望んでいた戦跡探訪といったら、夕暮
れ時にひめゆりの塔を拝観したことくらいであった。昨年、修学旅行で沖縄を訪れた児童・
生徒は42万人になるそうだが、海洋博公園や水族館が中心で戦跡探訪などは二の次である
らしい。しかし、沖縄に行くのなら太平洋戦争の末期に沖縄でどういうことがあったのか、
そして、戦後日本繁栄の陰で沖縄はどういう立場に置かれたのかを学ぶのを優先したいもの
だと考えてきた。                                

 日々、小学生の下校パトロールをしたり、双子の孫の面倒みたり、週に2回のナイターテ
ニスなどに明け暮れていると何か変化を求めて、たまには旅行でもしたいと思ってしまう。
旅行といっても、三年前に心臓の手術を受けた妻と二人では急ぎ旅や強行軍はできないし、
大分手が掛からなくなってきたとはいえ、双子の孫の手伝いを二人揃って休むわけにはいか
ないので、やはりこの際一人旅を考えた。                     
 一人旅、それなら何処に行こう? 父がフィリピンで戦死して64年、いつかは慰霊の旅
をしたいものだと思っているが、これは相当準備をしないと行けそうもないので、まずは沖
縄の戦跡か特攻基地のあった鹿屋(鹿児島県)はじっくりと見たいものだといつも思ってい
ることである。鹿屋なら鹿児島から電車かバスで行って特攻基地を見てくることはできるだ
 ろうが、沖縄なら運転免許をもっていない私としては、まずは観光バスに乗って概略を知り、
翌日にはもう一度時間をかけて見たいところに行く、というのも手だなと考えた。実際には
『首里城・戦跡おきなわワールドコース』(那覇バス)と『海洋博公園と今帰仁城跡(なき
じんじょうあと)』(沖縄バス)というどちらも9時間ほどかかる観光バスに乗っただけな
のだが。                                    

 ところで、沖縄への飛行機代っていくらなんだろう? そういえば、ANAのマイレージ
会員のシニア割引なら6月いっぱいは、空席があれば全線9千円〔前日までの予約なら1万
2千円〕(片道)というメールがきてた。そこでインタネットで予約状況を調べてみるとほ
 とんどの路線はどの便もなかなか満席にはならないらしい。一日に9便もある“羽田−沖縄”
便なら、一つくらい当日空席があっても良いじゃないかと考えた。きっと6月は旅行閑散期
ということで安いのだ。                             
 さて、行くなら“慰霊の日”(6月23日)あたりが良いのだが、それまでに何か支障が
生じないとも限らないので、“思い立つ日が吉日”とばかりに、かねて東京に行く予定のあ
った5日(金)にしようと決めた。だが、東京の用事が夕方までかかるとすると、沖縄便は
20時発の最終便しかない。最終便であれ、沖縄に行ってしまえば時間を有効に使うことが
出来るのだが、乗れなければ時間も経費も余分にかかることになることは明白である。「乗
れなければ戻ってくるだけさ!」と考えながらも観光バスの方は既に予約を取っていた。そ
こで、やむなく出発便だけは予約して、ホテルも土壇場で東横インの那覇旭橋駅前に3泊の
予約を入れた。                                 
 観光バスの予約を取ったといっても、チケット代を払っていなければ「飛行機に乗れなか
った」の一言で済むのだろうが、前に娘夫婦からプレゼントされたJTBの旅行券が一枚残
っているのを思い出し、それを使ってチケット代を払ったのだ。余談になるが、この旅行券
は現地での支払いに使うことができず、JTBの店頭でしか使えない。そのようなことで、
いつかJTBの社員に「旅行券というのは無利子でJTBに貸しているんだ!」と言ったこ
とがある。                                   

 飛行機は、マイレージ会員番号とクレジットカード番号で予約が簡単にできて、居ながら
にして席まで決めてしまうことができる。シニア割引は座席数も限られている上に、席を選
ぶ自由度も少ないらしい。トイレにも行きやすいように通路側の席が良かったのだが、真ん
中4列の内側の席しか選べなかった。「通路側に面倒な人がきたらどうしよう!」と思った
のだが、当日、それが現実となってしまったのだ。                 


『羽田から那覇へ』

 当日、羽田空港へは午後6時頃に着いた。出発予定時刻の2時間前である。羽田は流石に
発着便数が多いから、2時間前でもまだ出発予定ボードへの表示も出ていないので搭乗便に
空席があったかどうかはわからない。空席があれば夕食代が浮いたのにと悔しい思いをする
だけだったかもしれないが、搭乗できるかどうかの心配もなく、慌てずにゆっくり食事がで
きるということで良しとした。                          
  夕食の後、7時頃に手荷物を一つ預けて搭乗手続きをとって搭乗待合室に入ることにした。
手荷物を預ける際にパソコンは“同意書”を求められて一瞬戸惑ってしまった。面倒だと思
ってバッグから取り出して手に持ったら、今度はバッグそのものは預ける必要もないくらい
軽いものになってしまった。それでも機内持ち込み制限よりは“十分に”大きいものなので
そのまま預けて引き換えタグを受け取った。                    

 キーホルダーやコイン入れ・腕時計・PHSをトレイに載せてパソコンと一緒に保安検査
を通過して、搭乗ゲートへ進むと久々の空港ロビーも様変わりしていた。ロビー内は小さな
喫煙室以外は禁煙。非喫煙者としては、これは助かる。所々にパソコンデスクがあったので
パソコンを開いてみようかと思ったけれど、LANの端末があるわけではなく単なる場所提
供ということでやめにした。                           
 それにしても、今回は沖縄だけど世界の何処にでも通じているかと思うと、空港って開放
感があって『良いなぁ!』。                           

 搭乗開始のアナウンスのときに「小さなお子様連れの方、妊娠している方、ご高齢など、
助けの必要な方は優先搭乗のご案内をしますのでお進み下さい」という放送があった。早く
席について休みたかったので一応「ご高齢って何歳以上?」と訊いてみた。ゲートのすぐ傍
にいたので、結局は“優先搭乗”が途切れた“一般搭乗”で十分だった。       

 機内はかなり混んでいて、出発時刻を10分過ぎてやっと席も定まって動き出した。私の
心配していた“通路側の席”には幕内力士かと思うほど図体の大きな若者が席に着いた。ご
当人も馴れたもので、すぐ客室乗務員にシートベルトの延長ベルトを要求していた。腹がつ
かえてテーブルだって降ろせない。簡単に立ってもらえそうもないので、トイレに行くのは
諦めることにするが、先ほどロビーで飲んだビールが効いてきたらどうしよう? こちらの
席にはみ出して居るわけではないが、“凄い圧迫感”である。            

 やっと滑走路の端に着いて、離陸態勢にはいったと思われるときに、機長のアナウンスで
「到着便の機長から“滑走路に何か落ちている”という通報があり、確認・除去の間このま
ま待機します」ということだった。さらに「夜分のこと、手間取っている」というアナウン
スもあったが、30分ほど遅れて離陸した。那覇到着は23時ということだった。   

 沖縄は梅雨入りしているということで、荒天を覚悟したけれど機体は着陸までさほど揺れ
はしなかった。機体が上昇して安定飛行にはいったときに機内サービスのアナウンスがあっ
たのだが、そのままスーッと寝入ってしまったらしい。ビールの効き目がこんな形で現れた
のは幸いである。目が覚めてから、客室乗務員を呼んでマンゴージュースのサービスを受け
た。そういえば、非常時のライフジャケットの装着などの説明はあったのかどうか覚えがな
い。                                      
 着陸態勢に入って、前方のスクリーンに滑走路の誘導灯の明かりが見えたときはホッとし
た。遅れたことを除けば、“パーフェクトフライト。コングラチュレーションズ! サンキ
ュー”という気分だ。                              
 到着ロビーに行き、預けた荷物の回転台が動き出したのは23時20分くらいだったのだ
ろうか。「出口では、荷物の番号の照合は行ないません。番号タグだけを回収します。番号
はご自分で確認してください」と係員がしきりに叫んでいた。「似たようなバッグも多いの
で、間違わないように!」というのも繰り返していた。そのようなことで、二度も荷物を見
逃して、三回目でやっと荷物を手元に引き寄せた。                 

 最終便も遅れたとあっては、空港ロビー内のみやげ物店もレストランも閉まっている。モ
 ノレールは「何時までなんだろう?」と思っていたのだが、その方向へ歩いている人がいる。
それならと後をつけたけれど、結局は「本日は終りました」の表示がしてあった。もっと手
前に表示しておいて欲しかった。或いは、警備員が「モノレールは終りましたよ」と言って
くれても良かったのに!                             
 一階に降りてタクシー乗り場に行くと、並ぶこともなく乗ることが出来た。あれほどいた
乗客の多くは迎えの車に乗ったのか、私が荷物引取りに手間取ったりモノレール乗り場の方
に行ってる間にタクシーで去ったのだろうか。行き先を告げると、他の車も少なくビュンビ
ュン飛ばすのには閉口した。                           
 タクシー料金は、深夜にもかかわらず1160円。1200円払って降りた。地図を見て
もわかるように、那覇空港は市街地のすぐ傍にあるのを実感した。ホテルに入るとフロント
の時計は11時55分を指していた。5年前にもこの同じ東横インに泊まったのか、ロビー
の様子に見覚えがあった。チェックインして、部屋に入りシャワーを浴びてベッドに就いた
ときは午前1時になろうとしていた。                       


『二日間のバス観光』

 最初に述べたように、“沖縄の戦跡探訪”が今回の旅行の第一目的だったが、実際に乗っ
た観光バスのコースは『首里城・戦跡おきなわワールドコース』(那覇バス)と『海洋博公
園と今帰仁城跡』(沖縄バス)の二つである。ガイドさんの説明は重複するものもあるし、
どこで聞いたことなのか明白でないものもあるので、それぞれを分けて書くのは難しい。そ
こで二日間のことを取り混ぜて記すことにしよう。                 

 前夜、仕掛けておいたモーニングコールにより7時起床。東横インの朝食は7時から。身
支度を整えてロビーに降りる。最初の観光バスの出発時刻は9時だけど、バスの出発点(那
 覇バスターミナル)への道を間違えてはいけないので、8時にはホテルを出ることにしよう。
 東横インの無料朝食といったら、これまでは、これ以上まずい朝食はないだろうというよ
うな、ふりかけをまぶしたおにぎりとどぎつく着色したお新香と味噌汁が定番なのに、「お
や、ここは炊飯器からご飯を装うのか。おや、パンもある。コーンフレークも、サラダも牛
乳もオレンジジュースもある」というように、種類は豊富とはいえないものの、普通のビジ
ネスホテルの朝食と変わらなかった。“無料朝食”と言っても料金の内、と思えばまずくて
も食べなくては“損”とばかりに意地汚くも口にするのが常である。それが、ここでは美味
しくて食べ過ぎに気をつけなければと思うほどである。               
 那覇市内には東横インが4ヵ所あって、今回泊まった“旭橋駅前”は那覇空港からのモノ
レールで一番近いところにある。そして、かの有名な“国際通り”の入り口に近いところに
あって、夜“出掛ける”のには便利かなということで予約したホテルである。朝食が満足で
きれば、まずは合格。5年前もこうだったかどうかは覚えていない。         

 那覇市には、バス会社が4社あるらしい。そのうち定期観光バスを運行しているのが2社
あって、たまたま両方の会社を日替わりで利用した。二つの会社のバスターミナルは互いの
近くにあって、国際通りの入り口側である。つまり、宿泊した東横イン旭橋駅前からも10
分ほどのところにあった。とはいっても、初めての場所に行くのは不安なものである。ター
 ミナルには着いても受付にたどり付くには大回りしたりして意外と時間が掛かるものである。
 どちらのバスも、出発時刻の15分くらい前には来るようにということであり、席も自由
席である。海洋博公園の方は、水族館に入るなら乗車前に1割引の前売券が購入できるとい
ので購入した。どちらも20名足らずの乗客で、二人掛け座席の一番前の席を独り占めして
座ることができた。                               
 観光バスの運転手といえば、制服・制帽をイメージするのだが、那覇バスの運転手はブル
ーのアロハシャツに無帽。沖縄は海をイメージして皆こうなのかな、と思ったけれど、二日
目の沖縄バスではクラシックスタイルの運転手だった。               
 ガイドは、それぞれの会社の制服姿。初日は独身かな?というような沖縄美人。二日目は
お孫さんがいるかもしれないというような超ベテランガイドさんだった。どちらも沖縄県地
図を貼って、それを指しながらのガイドスタイルである。今まで、方々で観光バスに乗った
けれど、地図を指しながらのガイドは初めてのような気がする。それだけ、沖縄は県外の人
には知られていないということによる工夫なのかもしれない。あるいは、「米軍嘉手納基地
はココですよ」、「問題になっている辺野古はココですよ」というのを県外の人に知って欲
しいという願いが込められているのかもしれない。勿論、“アメリカ軍は1945年4月1
日に北谷(ちゃたん)・読谷(よみたん)に無血上陸したのです”といわれても沖縄の地理
にうとい私にはどこなのかわからないのだが、地図を指してココと言えば一目瞭然なのだ。
県都・那覇にしても、私などは何となく沖縄本島の真ん中辺に位置しているような気がして
いたけれど、改めて地図を眺めてみると、長さ110キロほどの本島の南端からわずか10
キロのところに那覇市はあるのだ。                        
 沖縄で戦争があったのだということが、知識としては知っているのだが、具体的な場所と
か日時となると何も知らず、ひめゆり部隊に象徴されるような“悲劇”のみが頭に浮かぶ。


――首里城公園――

 最初の見学場所は“首里城公園”だった。まずは、最近はとんと見かけることがなくなっ
た弐阡円札に描かれている守礼門の前でモデルさんを囲んで記念撮影―この写真(千円)、
見学済んでバスに戻ったときに売りに来た―。                   
 沖縄は、14世紀の頃は三つの勢力が支配していたのだが、15世紀に統一してできたの
が首里城を拠点とした琉球王国ということだ。米軍が沖縄に上陸したとき、日本軍は首里城
に司令部を置きこれを取り巻くように防衛陣地が置かれていた。その首里城は5月29日に
陥落するまでに完膚なきまでに叩きのめされたということだ。今の首里城は1992年に沖
縄の本土復帰20周年を記念して復元されたものだというが、守礼門から歓会門に行く途中
にある世界遺産の園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)の前方斜向かいにある城
壁は2メートル程の高さがあるのだが、1945年当時のものは路面の近くの変色した部分
だけということである。                             
 観光バスの乗客のひとりだったか、傍を通りかかった他の観光客だったか守礼門や歓会門
の門札?が「何で右から書いてるんだ?」と呟いた。誰かが何か答えていた気がするけれど
何と言っていたのかは分からない。昔、ある人が「掲額など、一文字ずつ縦書きにするとこ
うなるのだ」と言ったことを思い出す。そういえば、古い書物や文書で、複数行・横書きと
いうものはみたことがない。                           

[003]   [004]
  園比屋武御嶽石門        地表近くの石垣のみ1945年当時の物
  国王の出御の時、道中安泰                      
  祈願をこの門前でした。                       

 正殿に着く前の坂道から北を見ると、オレンジ色の瓦屋根の建物が見えた。沖縄県立藝術
大学だという。「蒲生(金田一)美津子さんはここの教授をしてたんだ!」と思いながら眺
めていた。                                   
 5年前に来たときは、夕暮れ時で既に正殿の拝観はできなかったのだが、今回は全て見る
ことが出来た。玉座も柱も赤漆がふんだんに使われている。64年前にはこういうものが全
て吹っ飛ばされて瓦礫の山となったとは信じられないことであった。玉座の前の廊下にはガ
ラスが嵌めこまれた場所があって、昔の土台部分がむき出しになっていた。      
 外へ出て、坂を下ってくると女の子たちが石垣や芝生に腰をおろして写生をしていた。幼
顔を見て、つい「中学生?」と声をかけたら「高校です」と明るい声。思わず「ゴメン!」
と謝ったが石川高校の写生会ということだった。50数年前は私もこんなに幼い顔だったの
だろうか。高校生が写生をしている“首里城の今”は、平和な光景であった。     

 前から、守礼門にしても首里城の建物も、これは日本の様式ではない中国の様式ではない
 か!と疑問を抱いてきた。首里城の玉座や琉球国王の衣装を見て更にその思いが強くなった。
そういえば、ガイドさんは「琉球は清朝(中国)にも日本にも朝貢してた」と言っていたが
琉球処分」ということは言わなかった。調べてみると、平安時代から交流はあったものの
琉球王国は、明治政府になってから1872年に琉球藩を設置させられ、1879年の廃藩
置県のときに武力により首里城に乗り込まれ沖縄県になったということだ―知らなかった。
日本は、1911年の朝鮮併合よりもずっと前に、同じ事をやっていたのだ。     
 このような史実をみると、日本政府は戦争中は沖縄を本土防衛の盾となし、1945年の
終戦、1952年の講和条約発効と同時に沖縄を見捨てたということではないのだろうか。

[011]   [015]
首里城北の風景           首里城正殿


――旧海軍司令部壕――

 ここは、「昭和19年日本海軍設営隊によって掘られた司令部壕で、当時は450mあっ
たと言われている」ということだ。資料館が併設されており、入壕する前に脇の小高いとこ
ろにある海軍戦没者慰霊之塔を参拝した。ここの司令官であった大田實海軍少将が6月13
日夜半、この壕の中で拳銃自決を遂げたことによるのかもしれない。後年、奥方も「夫の傍
に」という遺言で一緒に祭られたということである。                
 入り口から、比較的なだらかな階段(105段)を30mほど下りたところに壕はあり、
幕僚室・司令官室・暗号室・医療室・発電室・信号室などがあって、今では明るい蛍光灯で
照らされているのだが、当時はほとんど真っ暗闇であったに違いない。パンフレットによれ
ば幕僚室は「幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとが当時のままくっきりと残っている」
ということだが、予備知識が何も無かった私は、そのつもりで見ていなかっため、気がつか
なかった。更に、この中で遺骨収集が行なわれたということも“想像力”を働かせれば思い
浮かべなければならないのだが、もう少し細かいところまで見る心配りが必要だった。 
 資料館には、大田少将が海軍次官に宛てた800字ほどの電報(写)が展示されている。
「県知事から報告するべきだが、沖縄県には通信力が既に無いから、知事に代わって県民は
よくやったことを伝える」というようなことが記されているけれど、美談仕立てのこの種の
話は気に入らない。6月23日未明に摩文仁丘の壕で司令官牛島満中将の自決により、日本
軍の組織的戦闘は終結したということだが、大田少将も牛島中将も自決することなく戦いを
終らせることはできなかったのか。尤も、80年足らず前までは江戸時代。“腹切り文化”
の記憶の残る軍人には無理な話だったに違いない。                 
 だが、この電報は海軍次官に届いたのだろうか。判読できない文字が17個数えられるが
東京に届いたのなら、電報は残っていても良さそうなものだ。            

 バスに戻る前に、私は慰霊所の傍にあるみやげ物店で『記録写真集・沖縄戦―太平洋戦争
最後の死闘90日』(那覇出版社・1890円)を勧められるまま購入した。米軍が撮影し
た写真がほとんどの写真集である。それにしても、凄まじい物量の差、犠牲者数である。ガ
イドさんも死者の数も言っていたが、細かい数字は記憶にない。この写真集やパンフレット
から拾うと、全戦没者数は約20万7百名(日本側:約18万8千名、米軍側:1万2千5
百名)。そのうち沖縄県出身者が約12万2千名になる(約15万名という数字もある)。
さらに多くの人々が傷ついているのだ。当時の沖縄県の人口は57万4千人ということだ。
そこに4月から6月の3ヵ月の間に270万発の砲弾が打ち込まれたという。まさに“鉄の
暴風”といわれる所以である。                          

[037]   038
海軍戦没者慰霊之塔         旧海軍司令部壕・入り口


――ひめゆりの塔――

 “ひめゆりの塔”は、沖縄師範学校(女子部)県立第一高等女学校の教師・生徒で編成さ
れたひめゆり学徒隊の犠牲者の鎮魂のために建てられた慰霊碑として有名である。塔そのも
 のは、ひめゆり学徒の父兄が1946年に建立した高さ70センチほどの小さな石碑である。
その後建立された慰霊碑には犠牲者の名前がびっしりと刻まれている。百合のレリーフは修
復のためはずされていた。                            
 ここは、5年前に訪れたときは夕闇せまるころだったので、周りの様子がよくわからなか
った。慰霊碑は道路から奥まったところにあって、その前には大きな穴があいている。この
穴は第三外科壕があったところということだ。平らな床など無く、ごつごつした岩肌の底に
梯子で降りたのだという。この壕の底で、乙女たちが看護婦として活動したのだ。   
 道路わきで参拝用の花束(200円)が売られていた。私は、それを求めて献花台に手向
けた。ひめゆりの塔の後ろには平和祈念資料館があるのだが、参拝の後、昼食休憩中の自由
見学だった。                                  
 昼食は、道路の反対側の優美堂というみやげ物店兼食堂に入ると、既に配膳されており、
椅子の背もたれに片仮名の名札が貼付されていた。メニューは沖縄ソバと混ぜご飯・ゴーヤ
の入った煮物だったかな。オリオンビールでも注文できたのかもしれないが、汚水も飲まな
ければならないような悲惨な目に遭った乙女たちのことを思い、ビールは控えた。   
 実は、ひめゆりの塔の脇の方、数10m離れた所には他の女学校の学徒の慰霊碑が建って
いるのを知っている。ひめゆりの塔だけが有名でもてはやされるのだが、5年前に来たとき
に見つけ参拝した。今回も行こうとしたのだが、自由時間が短くて後ろめたい気持ちを引き
ずりながら、ひめゆり平和祈念資料館の方へ急いだ。ひめゆり学徒隊の語り部の人たちに会
えればいいなと思ったけれど、ライブで“出演”することは無くなったのか、時間帯が合わ
なかったせいなのか、生き証人の方々に出会うことはできなかった。大きなスクリーンにビ
デオ映像が映し出されていた。耳をふさぎ、目を覆いたくなるような“証言”のいくつかを
聴いた。                                    

↓↓立体視(交差法)を試みてください。↓↓
[048ひめゆり]   [047ひめゆり]
ひ め ゆ り の 塔

[052]   [051]
こんな洞窟の底で乙女達が・・・・。


――平和祈念公園――

 糸満市摩文仁にある平和祈念公園の滞在時間は短かったような気がする。資料館のロビー
に入って概要の説明を受けた後、資料館を詳しく見るか平和の礎の方を見るか“二者択一”
のようなものだった。迷わず平和の礎の方へ行った。“平和の礎”は、沖縄戦で亡くなった
全戦没者の氏名を国籍や軍人・民間人の区別なく、黒御影石に刻んだもので24万名以上の
名が刻まれている。円形の「平和の広場」の中心に「平和の火」があり、同心円の円弧上に
 刻銘碑が並べられている。岩手県出身者の場所はすぐ見つけられた。685名ということだ。
「鉄の暴風の波涛が、平和の波となって、わだつみに折り返し行くコンセプト」というのが
デザインコンセプトになっているという。                     

  ここでも、もっと予備知識と時間があればと後悔した。摩文仁の丘陵が「沖縄戦終焉の地」
だったのかぁ。「この大きな水盤の真ん中にある円錐形の物は、何なんだ。謂れのある物な
のだろうなぁ」―――ここに“平和の火”が灯されているとは知らなんだ! 摩文仁の丘に
は各都道府県の慰霊塔があるのだ―――“岩手の塔”を参拝したかったなぁ。     

[062]   [061]
平 和 の 礎 ( 平 和 祈 念 公 園 )


――万座毛――

 今日の最初の観光スポットは“万座毛”である。琉球国王が「万人を座らせるに足る毛
(野原)」と称えたのがこの名の由来だという。隆起サンゴ礁の岸壁の上にある。遊歩道を
5〜6分ほど歩いた突端部分で観光バスの記念撮影。バスの中ほどに座っていたお嬢さんは
ちょうど反対側の端に席を占めた。残念!                     
 この海は、東シナ海だったのか。この突端から左手に見えるものは“象の鼻”といわれる
奇岩である。そこから手前の崖の上に人がいる。カメラの望遠レンズで見ると釣り糸を垂れ
ていた。アチラには柵はなさそうだが、恐いなぁ。                 

[bus]


――海洋博公園と水族館――

 海洋博公園は、1975年に開催された国際海洋博覧会の跡地に造られた国営公園という
ことだ。沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館と亜熱帯の花・植物が観察できる。この日の昼食
の場所は、隣接するチサンホテルのレストランであった。今日の席は詰め込みではなく、独
り席に案内された。ここでも沖縄の食材の豪華弁当といったところであった。     
 5年前に来たときは、水族館は結構時間がかかるということで見なかった。そこで、今回
は、まずは水族館に入ることにした。日曜日とあって家族連れで賑わっている。人混みの中
で、バスで一緒のお嬢さんがニコニコしながらディジカメで盛んに写真を撮っている。女優
かモデルではないのかと想像しながら、2〜3メートル離れたところを暫らく人の流れに沿
って歩きながら海の生き物を見ていたが、いつの間にか彼女の姿を見失った。     

 水族館と言えば大洗の水族館も結構楽しめるところであるが、流石に国を挙げての水族館
は規模が違う。大水槽のジンベイザメや頴娃(えい、マンタ)もいろんな方向から鑑賞する
ことが出来るように設計されていた。それにしても、マンタは腹面や水槽のガラスにへばり
つく姿はグロテスクだ。                             

 ここの滞在時間は2時間半。展示してある海の生き物を、説明書きを読みながら観ていて
は一日かかってしまいそうである。一通り観たときに、外のプールでイルカショーが始まる
というので外に出ることにした。再入場するために腕にスタンプを押されたが、ブラックラ
イトをあてて検認するらしくインクに色は付いていない。              
 イルカは10頭近く居たのだろうか。観客席はほぼ満員の大きな野外劇場でショーが始ま
ろうとしていた。一旦、観客席に腰を下ろしたものの「(亜熱帯の)花が見られなくなる」
ので観覧中止。実は、花の写真を撮ってプライベートサイトに載せている。原則として毎日
更新しているので、その日の写真が欲しかったのだ。                
 その時の外の景色が、日立にいるときとは何か違う気がしたのだが、人も物も全ての影が
短いのだ。調べてみると、海洋博公園のあたりの緯度は北緯26.5°くらい。北回帰線の
 3°北に位置するだけで、夏至に近い頃の昼過ぎは太陽がほとんど真上にあったはずである。

 マナティー館とウミガメ館を覗き、タコノキや蘇鉄、名も知らない白い花の写真を撮って
出口の方へ歩いて行くと、あの女優のようなお嬢さんに遭遇した。「アラ!」という表情を
したので、「シャッター押してあげましょうか?」と声をかけた。「???」。咄嗟の万国
共通語(身振り・手振り)で意味が通じた。近頃の女優やタレントにはこのような身なり・
顔立ちの人はいっぱいいるので、日本人だとばかり思っていた。英語に切り替えて話してみ
るとカナダはバンクーバーの学生だという。COMMUNICATIONSを勉強しているというのだが、
どういうものなのかは解らない。私のカメラでも写真を撮って写真を送ることにしたら、メ
ールアドレスを教えてくれた。あと二日して日本を離れるということだったので、“帰国”
した頃を見計らって、彼女の写真や万座毛・水族館の写真を取り混ぜて作ったウェブサイト
のアドレスをメールした。一週間ほど経ってから、何と中国に滞在中で7月に帰国する、と
いう返信がきた。冬季オリンピックのときに「バンクーバーに来るなら、ご連絡を」と書い
てあった。一ヵ月もの間、外国旅行できるカナダの学生さん、羨ましい限りである。プライ
バシーの関係で、彼女「専用のサイトであり、ほかとリンクさせていない」と約束したし、
了解も得ていないので私が撮った彼女の写真をここに示すことは控えましょう。    

[tank]〔写真集(2)では拡大もできる。↓〕


――今帰仁城後――

 琉球統一以前に、沖縄本島北部で勢力を伸ばしていた北山王の居城が今帰仁城跡である。
ユネスコの世界遺産に登録されている。全山、大きいものでも手で抱えられるほどの大きさ
の石を積み上げた石垣、といった建造物である。隙間無く積み上げるためには、規格化され
た煉瓦などと異なり、個々の石を削ることも必要であったと思われるが、かなりの手間のか
かる土木工事であったに違いない。                        
 城門をはいり、今述べたような石組みの階段を登って日本本土の城で言えば天守閣のよう
な場所に着いた。そこには〔北山王の奥方の?〕歌碑が建っていた。残念ながら、謂れも内
容も憶えていない。ぐるりと周って、途中、何か聖なる遺跡もあった。ガイドさんが頭を垂
れたので、カナダのお嬢さんには “Some saint place.”と言ったものの、言った本人が理
解していないのだから、彼女に伝わっているはずがない。その傍には、フクノキというのが
生えていた。水気の多い樹で燃えにくいらしい。燃えにくいため、住宅の傍に植えておくと
隣りの火事などで類焼を免れる「幸福の樹」ということだった。           
 出口を出たところに土産物屋があったが、その脇でサトウキビをその場で搾って売ってい
た。サトウキビは、幼い頃(大阪で)かじって汁を啜った記憶があるので、特別な思いがす
る。コップ一杯300円だったか。只の砂糖水ということになるのだが、氷が入っていて、
その日の暑さの中で“生き返る思い”とはこのことだったか。            


――国際通り――

 観光バスの出発点は、二つともこの国際通りの入り口側にあって、朝は二日ともこの通り
を通過した。この一帯は焼け野原であったものが、戦後、自然に人々が集まるようになって
できた長さ1.6kmのまっすぐな通りである。そのようなことから“奇跡の一マイル”と
呼ばれているということである。通りの入り口にも旅行案内書にも“国際通り”と書いてあ
るのだが、沖縄バスの超ベテランガイドさんは“国際大通り”と言っていた。年配の人はそ
のように言うのであろうか。                           
 この国際通りには、両側に土産物屋や泡盛の古酒店・飲み屋・食事どころ・ホテルなどが
びっしりと並んでいる。観光バスは二日とも昼食付きだし、夕食はこの国際通りに行ってみ
ようと決めていた。                               
 沖縄で飲み・喰う・歌うと言えば、泡盛・沖縄ソバ(豆腐もある)・三線(さんしん)で
島唄ということになるのかもしれない。那覇バスのガイド・嘉美田さやかさんは三線持参で
島唄(沖縄民謡)をいくつか披露してくれた。島唄の音階はド・ミ・ファ・ソ・シの5音な
のだという。三線を習っていて、週に一回ほど“師匠”と島唄の“ライブステージ”にも出
ている。今日がその日で「7時からです。時間のある方はどうぞいらしてください」という
 ことであった。食事どころを探す手間が省ける、これ幸いとばかりにそこに行くことにした。
“きらら”という店である。このサイトの掲示板によく登場する名前なのですぐ覚えた。

 ホテルに戻って、シャワーを浴びてから“きらら”に急いだ。10分前くらいであった。
彼女から「土曜日は混むので(席をとっておくように)言っておきます」といわれていたの
で、名を告げるとカウンターに案内された。ステージに背を向ける位置だったけれど、バー
テン?に何か訊けるから良いかと、そこに腰を落ち着けた。             
 沖縄の酒といえば泡盛なのだが、「春夏秋冬、朝昼晩、飲むならばビール」を信条とする
私はまずはオリオンビール(生)を注文した。5年前に来たときは、オリオンビールの工場
を見学したのだが、アサヒビールの委託でスーパードライも造っていた。あのスーパードラ
イは酵母はアサヒビール提供なのだろうなぁ。とにかく5年前に工場で飲んだオリオンビー
ルが美味かったので、沖縄に行ったらオリオンビールにしようと、これも決めていた。今回
もよく冷えたジョッキで飲むオリオンビールは美味かった。             
 ステージが始まった。“師匠”が率いる10数名のグループということだが、小さなステ
ージに登場したのは、“師匠”と女性二人。その一人がさやかさん。皆、アノ沖縄独特の着
物で三線と太鼓で賑やかに島唄を歌った。さやかさんも昼間の顔とまるで違う。飲みに(食
事に)行くのだからと思ってカメラをホテルに置いてきたのは失敗だった。      
 沖縄に来たら、やはり泡盛も味わわなければ・・・。とは言え、すいすい喉を通過しやす
くて飲みすぎてしまいそう。結局は、手ごろな値段の古酒をグラスに1杯だけカウンターの
向こうのオニイサンに注文した。これをグイグイ飲み干してはいけないと、自分に言い聞か
せながら味わった。食事の方はメニューを見ながら沖縄らしいものを何点か注文した。途中
でママさん(というのかな? 矢っ張り)が「お店からのサービスです」とさやかさんの顔
をたてて沖縄豆腐を一品つけてくれた。豆腐の消費量は盛岡が日本一であるが、盛岡の豆腐
とは違うけれど美味かった。                           
 客も一緒にひとしきり賑やかに踊ってワンステージが終った。あとツーステージあるらし
かったが、彼女達が退場して店中鎮まったところで、「飲んだし、喰ったし、他所も見なけ
れば」と帰ることにした。                            
 勘定払って出ようとするところへ後ろから「むらのいさーん」と追いかけて来たのは、さ
やかさんであった。「今日はありがとうございます。」 まるでガイドさんの顔とは違って
た。「私も食事の場所を探さなくて助かった。明日も出るの?」、結局は彼女は週に1回、
明日も出るのは師匠だけらしく、翌日は別の店で食事した。「どちらが本業?」と訊いた時
は、ちょっと返答に詰まってから「ガイドです」と言ったのは、三線を本格的に続けたいと
いう表れかもしれない。名前を控えてきたし、ガイド姿の写真の名札もはっきり読めるので
バス会社を通して写真を送るつもりである。                    

 翌日も、この国際通りで食事をしたわけだが、食事の前に3人の孫達にだけは何かお土産
を持って帰らなければと思ってぶらぶら歩いていたら、カラフルなシャツが目に付いた。値
札は千円くらい。この中で3点と物色し始めたら年配のおばちゃんが「男のお子さん? そ
れとも女のお子さん? おいくつ?」と寄ってきて、いろいろ品定めをしてくれた。これは
買ってくれる客とみたか、「中にもっと良いのがありますよ」と奥に引き入れられた。結局
@2800のアロハシャツや甚平が3点で締めて8820円(税込)。予算大幅アップだけ
どオジイチャンは孫には弱い! 品物を包んでいる間にもお菓子を出してくれたり、泡盛を
「一杯如何ですか?」とサービスにコレ努めてた。泡盛はお茶代わりにも飲むものらしい。
泡盛は遠慮したけれど、黒糖だったかお菓子が美味かった。             

[international-street]
朝の国際通り〔夜は渋滞〕


――米軍基地の話――

 4年前に学会で沖縄を訪れた時は、最初、学会の開催されるコンベンションセンター(宜
野湾市)に近いところにある安宿に宿泊した。そのホテルは広い道路沿いにあったのだが、
その道路をはさんで向こう側は米軍海兵隊の施設になっており、金網のフェンスに「無断で
立ち入ると日本国の法律により罰せられる」という旨のことが日米二ヵ国語で書かれていた
のを覚えている。また、学会の一ヵ月半ほど前には米軍のヘリコプターが沖縄国際大学に墜
落したときだったので、その現場を見にも行った。まだ、大学の建物が黒く煤けた様子が生
々しく残っていた。                               

〔撮影:1994/09/20〕

[okinawa-kokusai-u-02]   [okinawa-kokusai-u-01]
沖縄国際大学の米軍ヘリ墜落現場〔撮影:1994/09/21〕

 そのようなことから、沖縄の“戦跡巡り”をすることとは、沖縄が現実に抱えている“基
地問題”に向き合うことでもあった。                       
 戦跡めぐりとは異なる海洋博公園や水族館を訪れるコースのガイドさんも、沖縄戦のこと
を語り、基地問題のことも話していた。沖縄コンベンションセンターに曲がる交差点を過ぎ
たあたりで聞いた気がするので、宜野湾市にある米軍普天間飛行場のことだったかもしれな
い。「この国道の右手一帯は、米軍基地で“空飛ぶ司令塔”と呼ばれる飛行機が配備されて
おり、その飛行機を見るときがあります。この辺です!」と言ったときに、右前方数百メー
トルのところにアノ特徴的なレーダー室のテッペンが二つ見えて、カメラのシャッターを切
った。                                     
 ガイドさんは、沖縄の米軍基地について、「基地はなくなって欲しいと思う一方で、その
基地で生活している人もいる難しい問題です」と、抑えた言い方をしていた。     

 今回の沖縄旅行では、米軍基地のホンの一端にしか触れることは無かったが、改めて地図
を眺めてみると、この狭い島に米軍基地が点在し、日本全土の米軍基地の8割が沖縄に存在
している現実は、やはり異様である。米軍基地とは違うけれど、帰りの飛行機が滑走路に移
動する時に見た、航空自衛隊の戦闘機が並んでいるのは、沖縄は戦争が隣り合わせになって
いる気がした。千歳空港(北海道)も自衛隊と共用しているけれど、自衛隊機の格納庫は遥
か彼方にあるのに対し、那覇空港では手が届きそうな目の前に戦闘機が並んでいた。  

[024] [20]
空飛ぶ司令塔〔米軍基地〕         那覇空港の自衛隊機
                    〔下にぶら下げているのはミサイル?〕



――沖縄の植物――

 沖縄は亜熱帯地方であり、本州などとは植生が全く違っている。沖縄の花といえばデイゴ
なのだそうだが、これは、ちょうど咲き終わったばかりで見られなかった。この季節、どこ
に行っても見られたのが真っ赤な花が咲いているホウオウボクである。他にもこれまでに見
たこともない花がいくつもあった。赤い花が目立つが、沖縄の花は血の色をしていると思っ
たほどである。                                 
 ピンクの花で見たこともない花だと思ったものは、沖縄花図鑑を調べてみたら、百日紅ら
しい。百日紅といえば、まずは赤を思い浮かべるが、花房が大きくピンク色をしているもの
が百日紅とは思わなかった。                           
  ブーゲンビリアは、我が家では鉢に植えたものを何度か枯らしているのだが、さすが沖縄。
おきなわワールドでは3メートルほどの高さまで育っていた。             

 本州と同じものとして、6月上旬なのにコスモスが咲いているのは驚きだった。バスが赤
信号で停まったときに目にして写真に撮った。ほかに、今帰仁城跡でキバナコスモスが咲い
ていた。キバナコスモスは、オレンジ色のほかにレモンイェローのものが咲いていて、それ
を写した。原産地が書いてあったがメキシコだと思うけれど写真には写っていない。  

[008]   [007]
ホウオウボク〔那覇市役所前〕

――おきなわワールドとナゴパイナップル公園――

 観光バスの一日目にはおきなわワールド、二日目にはナゴパイナップル公園がコースに含
まれていた。                                  
 おきなわワールドは玉泉洞(鍾乳洞)と琉球王国城下町?を再現したものが“目玉”であ
る。玉泉洞は安家洞(岩手県)に次ぐ長さだとういう。じめじめして蒸し暑かった。四季を
通じてほとんど温度がかわらないことから、泡盛の貯蔵場所にも使われているという。太陽
の光が当たらない、鍾乳洞の中にもこのような生き物が棲息しているという場所もあった。
 鍾乳洞の後は、ガラス工房を体験できるところとか、黒糖づくり、ハブ酒の工房・販売な
ど琉球の産業を体験する場所なのだろうが、ほとんど全て素通りした。最後はエイサーのラ
イブショーを観た。大きなテント張りの野外ステージといったところ。10人くらいの男女
の若者である。獅子舞とか唄や踊りは飽きさせない。惜しむらくは「他のお客様の邪魔にな
ったりするので、写真撮影は禁止となっております」。何を言うか。カメラを持って“踊り
場”に近付いて獅子と接触したら危険だけど、写真に残っていないので印象は薄い。絵葉書
を買わせる商魂か? 暗闇の中の演技とは違う。写真を撮らせて、他の人に見せて、次の客
を連れてきてもらった方が良いだろうに。                     
 パイナップル公園は、パイナップル食べ放題券がついているが、要するに土産物店の“有
料入場券”。 パイナップルの試食やパイナップルワイン?はアレコレ試飲した。いける味
だが購入はしなかった。「一箱千円だけど、二箱千円でどう?」とヒョイと差し出されたの
がハイビスカスティー。“割引”という言葉に弱い“悪い癖”が出て、思わず財布から千円
を取り出した。帰ってきて飲むと、ハーブティーといったところ。ハイビスカスの匂いなの
かどうかは判らないけれど、結構いける。だが、一箱は他所にあげたけれど、家の分はまだ
残っている。                                  

『む す び』


 急に思い立って訪れた沖縄である。定額給付金がちょうど飛行機代に見合うだけの額だっ
た。念願の“戦跡探訪”はできたものの、ざっと表面をなでただけのことである。折しも、
6月23日付朝日新聞・声の欄に「アブラチラガマ(沖縄戦で負傷兵や看護婦、住民が立て
こもった地下壕)へ行ってきました」という投書が載っていた。「ひめゆり部隊の資料館を
訪ねるのが目的でしたが、この地下壕は観光ガイドに載っておらず、現地でたまたま知りま
した。」ということである。そう言えば、兄も沖縄に行ったとき、そういう所も見て来たと
言っていたようだ。飛行機のチケットが安いといっても、そう簡単には行けないのだからも
う一泊してお仕着せでない場所を探索するか、最初に書いたようにもう一度見たいところを
見に行けば良かった。東横インにチェックインするときに丁度ポイントが貯まって、「次は
無料で一泊できます」と言われていたのに・・・。                 

 出発のときに、いつでも身に着けているわけでもないのに万歩計が目に付いて、ポケット
に入れて行った。沖縄に着いて、朝出掛けるときから一日中万歩計を腰のベルトに付けてみ
た。何と二日間とも、2万歩ほどの歩数になった。国際通りに出掛けた分は往復で5千歩ほ
どだったので、観光バスに乗ってあちこち歩いた分は1万5千歩くらいである。日頃、小学
校の下校パトロールをして、更にテニスを2時間やってもトータル1万2千歩位である。妻
 に、「やはり、相当歩いたよ!」と暗に「一緒に行かなくて良かった」ということを告げた。

 那覇市には大学の同期生がひとり住んで居る。卒業以来というよりも、彼は卒業が一年遅
れたために一度も会ったことがない。そのため、沖縄に行くにあたり、住所も電話番号も控
えておいたのだが、何か気後れがして、とうとう最後まで彼に連絡をとらなかった。我々が
大学に入学したのは1961年。沖縄は米軍の統治下にあった。当時、沖縄在住の受験生は
国立大学に入学するのに、本土に来て受験することもできたが、文部省の(沖縄政府の?)
統一試験のようなものを受けて“推薦”(定員外)で入学することもできた。彼は推薦入学
だった。本土に来るのにパスポートが必要だなどと思っていなかったのだが、彼はパスポー
トを見せてくれた。そこには「留学のために帰国」と書かれていた。沖縄は完全に“外国”
だったのだ。                                  
 帰りの飛行機は第2便の11時発が簡単にとれた。窓際の席をとった。搭乗してみると、
4人席を独占するほど客は少なかった。搭乗までかなり時間があったのだから、彼に連絡す
れば良かった。あるいは、もう一泊する必要がここにもあったのだ。         

 空港ロビーでお土産を買い、レストランで沖縄最後のオリオンビールを飲み、パソコンの
入ったバッグを今度は“同意書”にサインをして預け、飛行機に搭乗した。空梅雨気味とは
いえ、真っ青な空、真っ青な海というわけではなく、眼下に何という島なのか、霞んで見え
 た。「見落としたところを見に、もう一度来るぞ!」と思いながら、下の景色を眺めていた。
[モノレール] [island]
沖縄のモノレール〔旭橋駅ホーム〕           島の名は?


―― 補 遺 ――

 最初に、フィリピンへの慰霊の旅のことを書いたら、最近の“日立市報”に『厚生労働省
主催の慰霊巡拝事業』の報せが掲載された。厚労省のホームページを見たり、市役所に照会
して必要書類を取り寄せた。フィリピンは1月の実施で、全国で60名の募集である。戦没
地域によって20名ずつ3班に分かれるらしい。費用が明確ではないけれど、国家公務員の
出張旅費の三分の一相当分の補助が県から?出るらしい。国の代表として行くのだから、個
人行動はできないという。新型インフルエンザやマラリアとか心配な地域だけど、体の自由
のきく間に行きたいと思い、申し込むつもりで居る。                

 最近、大学の同窓会でNTTデータの社長・会長を務められた藤田史郎先輩の講演を聴く
機会があった。青春時代は戦中で“失われた青春”も戦後の復興期も経験してきた。そうい
うものを知っている年代のものとして、“戦争の悲惨さ”なども次世代に語り継がなければ
ならないと言っていた。私が“戦跡巡り”を念願とし、このような紀行文を記したことは、
口幅ったい気がするけれど、“同じ思い”のことである。              

                             2009/06/13:書き始め
                             2009/07/05: 終  
                             2009/07/10:加筆修正


写真集『沖縄紀行(1)』:ここ

写真集『沖縄紀行(2)』:ここ

写真集『沖縄の植物』:  ここ


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