在京白堊三五会 双子・医療問題・NICU(村野井徹夫)


岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・『一年を振り返る』by村野井

双子の孫の誕生をきっかけに、命の問題・医療問題を考えた一年を振り返る
読後感を掲示板にお寄せ下さい



 「一年を振り返る」と言えば、普通は大晦日(日を特定しなくても十二月)の“行事”と
いうことになるであろう。だが、ここで述べようとするのは昨年の3月3日からの一年間の
ことである。話題は三つであるけれど、それが全部関係した内容で、三つ目の内容そのもの
は更に二年前の“出来事”である。                        ..



『双子の孫の誕生』    



 昨年の3月3日、嫁いだ娘のところにコウノトリがやってきた。それも赤ちゃんを一遍に
二人も連れて! 大学を卒業して半年後の10月には結婚した娘なのだが、それ以来10年
以上も子宝に恵まれなかった。私は、夫婦二人だけの生活も「それも良いじゃないか」と思
うのだが、娘は母親(私の妻)と相談しながら、あれこれ“治療”を受けていたらしい。そ
れだけに“コウノトリの来訪”は本来ならば、諸手をあげて『万歳!』を叫ぶ慶びごとのは
ずである。ところが、6月上旬の出産予定日よりも3ヵ月も早い出産となってしまい、悦び
よりも心配の方が先になってしまったのだ。ただ、幸いなことに最初からスタッフも設備も
整った地域の周産期母子医療センターのある総合病院にかかっていたために、緊急事態に遭
遇していながらも、ある程度余裕を持って受け入れる心の準備はできていた。元々、定期健
診に行ったときに「入院!」となったのだが、それが“出産の始まり”だった。帝王切開と
決まっても、少しでも胎児の体重が増えるようにといって、一週刻み、一日刻みで手術の日
 にちを合わせてくれた。産む前は「体重が500グラムになるまでは何とか頑張りましょう」
と言われていた。                                ..

 生まれた児は、第一子が女の子で体重704グラム、第二子が男の子で体重420グラム
の超低体重児であった。私が病院に駆けつけたときには「今さっき、生まれたの!」といわ
れ、会えなかった。妻は、保育器に入っている生まれたばかりの児をチラッと見、産声も聞
いたらしいが、すぐ新生児集中治療室(NICU)に連れて行かれたということだ。後日、
私が「420グラムというのは、缶ビール2本分にもならない」と言ったら、娘に「缶ビー
ルなんかと比べないで頂戴!」とクレームをつけられた。              ..

 出産後4時間以上経ってから、娘婿と妻と三人で担当の小児科医(二人)と看護師から出
生児の状態や今後の治療方針の説明を聞き、書類への署名やらを求められた。インフォーム
ドコンセントである。その席で、生まれた児の体重などを知ったというわけである。  ..
 私が第一に心配したことは、酸素吸入による“未熟児網膜症”なのだが、「当院での経験
やいろいろな臨床例をもとに万全を期しますが、個人差があり何とも申しあげられません」
というものであった。幸い、半年ほど毎月眼底検査を続け、「異常はありません。春になっ
たらまた検査しましょう」というお墨付きを貰っている。              ..

 署名を求められたこととしては、次のようなことを記憶している。         ..
  • 胎児は母体から臍帯を通して酸素や栄養を受けていて、生まれれば肺呼吸するようにな
    って、普通は肺動脈かどこかの血管がひとりでに閉じる必要があるのだが、未熟児の場
    合そうならないことがあり、必要な酸素が行き渡らなくて全身状態が悪くなる懼れがあ
    る。その血管が閉じるのを促進する注射をしてよいか。             ..
  • 必要な場合、輸血をして良いか。(新生児の血液型は判定できず、通常O型を輸血。..
    それどころか、低体重児は一滴の血液も無駄にできないので採血できない)    ..
  • 母乳の場合、他の母親の母乳と混ぜて良いか?                 ..
  • 飲み込む力が弱いので口から胃までチューブを通してよいか? (1回に与えるミルク
    の量は1−2ミリリットルなのだ)                      ..
  • 酸素吸入のチューブやモニターのセンサーのコードを引っぱらないように手を縛っても
    良いか?                                 ..
と、ざっとこのようなものであった。祈るような気持ちで全て「お任せします」といって婿
さんは署名した。                                ..

 病院では、七日目には祝い膳を出して二人の誕生を祝ってくれた。その日に出生証明書を
書いてもらったようだが、「女の子は3月3日の3時33分生まれならいいね。だけどそん
なにうまくいかないよね」と(婿さんと)話していたけれど出生証明書に午後3時33分と
書いてある」と、その偶然を喜んだ。午後3時33分と3時37分生まれであった。  ..

 ほどなく母親(娘)は退院したけれど、二人の新生児はNICUに入院したままで病院の
小児科の医師と看護師によって24時間体制で見守られることになった。こども等の両親は
NICUに入って面会できるけれど、じいちゃん・ばあちゃんは廊下の窓から覗くことしか
できない上に、NICUのはるか向うの保育器の中にいるので退院するまで見ることがかな
わなかった。月満ちて産まれた児と違って、皮膚も完成されていないために、保育器の中に
入れられた上に、さらに皮膚が乾かないように大きなビニール袋に入れられていたというこ
となので、例え窓の近くにいたとしても簡単には見られなかったに違いない。私ができるこ
とと言ったら、娘が撮ってくるディジカメのメモリーを受け取ってプリントすることだけで
あった。その間、娘はこどもが退院するまで毎日、NICUに母乳を届けたり、こども等の
前で搾乳するために通っていた。                         ..
 私は、ふたりの孫たちの体重のデータをグラフにしたが、このグラフを見る度に「よく頑
張ったねぇ」と涙が溢れてしまう。生まれて最初の3週間というもの、一日に増える体重と
いったら、3グラムとか5グラムなのだ。小さい方の児が1000グラムを越えたのは生ま
れて2ヵ月後の5月5日で、その頃は一日あたり30グラムくらい増えていた。最小目盛り
が1グラムの測定に意味があるのかと思っていたのだが、未熟児にとって一回に与えるミル
クの量や一日あたりの体重の増加量を考えると1グラムずつが本当に貴重な数字ということ
が理解できる。                                 ..
 娘は最初はNICUに母乳を届けに通うだけの毎日であったが、徐々に体重が増えるにつ
れ「初めて抱っこできた」とか、「今日は初めてカンガルーケア(ゆったりした服を着た状
態で服の中に入れ肌を接して抱くこと)をした」「初めて沐浴をさせた」「初めて乳首を咥
えさせて母親をした」と、日ごとに育っている報告が増えていった。         ..

 NICUにはいつまで入院していればいいのか判らなかったが、市の保健センターに提出
する書類には9月末日になっていたということだ。実際には、大きい子(♀)はちょうど出
産予定日だった頃に退院し、小さい子(♂)は8月下旬に小さい酸素ボンベ・酸素センサと
一緒に退院してきた。酸素吸入をしなくても良くなるまで置いてもらえないのかと思ったの
だが、他の児にもチャンスを与えて欲しいということと、母親をはじめ家族の声・テレビの
音、いろんなものからの刺激を赤ちゃんに与えたほうが良い、というものであったようだ。
また、病院に長くいると父母・家族の愛情が薄れてしまう場合もある、らしい。中には、絶
望して遺棄してしまう親もいるということだ。                   ..

 女の子が退院してきたとき、娘(母親)がその子を抱いて車から降りてくるときの弾ける
ような笑顔を望遠レンズでばっちりと捉えることができた。私は、『ある出来事』で述べる
2年前の“失敗”のことを思い、特別の感慨を持って娘の笑顔をファインダー越しに眺めて
いた。                                     ..

 私は、その児の退院が決る前から「お父さん、お風呂に入れるの頼むね!」と言われてい
たけれど、いざ退院と決った日の一週間ほど前にテニス中に転倒して肩を打ち鎖骨を折って
腕を吊っており、そのために家族中の顰蹙を買っていた。二人目が退院してからは、ほとん
ど毎日二人の児を風呂に入れるために通っている。                 ..
 双子は風呂の後すぐミルク―今ではもう離乳食だが―を飲ませたり“てんてこ舞い”なの
で、どうしても人手が要る。その上、男の児は最初の内は酸素吸入のチューブをつけたまま
風呂に入れていた。そこでじいちゃんの出番なわけで、二人を交互に入れた後、のぼせ気味
で風呂から上がり、缶ビール1本の食事をして車に乗せてもらって帰ってくる。    ..
 あと一週間で、満一歳の誕生日を迎えるのだが、今では、女の児の方は掴まり立ちして無
意識の内に手を離していることもある。男の児はまだ這い這いもままならないが、大きくな
ったら女の子にもてそうな顔をしている――これって、ジジ馬鹿かな?        ..





『医療を巡る社会現象』    



 二人目が退院してくる前、8月の上旬だっただろうか。娘が母乳を届けに病院に行ったら
「来年の4月から日立総合病院の産科がなくなるみたい!」というニュースをもってきた。
3月末に産科の医師が全員(大学病院に)引き揚げられるため、4月からの出産は扱えない
という院長の「お知らせ」が掲示されていた、というわけである。各方面に働きかけて医師
の確保に努めているが見通しがたたない。それまでは、4月以降の分娩の予約は受け付けら
れないというものであった。                           ..

 近頃、医療の現場では全国的にもいろいろ問題が起きているのだが、娘夫婦の双子の孫の
場合、只々運が良かったというほかはない。実際には非常に危険な状態であったのだが、そ
れでも、出産もある程度見通しをたてることができる状態で、最高の設備で最高のスタッフ
に見守られて最善の医療を受けることができた。感謝あるのみである。        ..
 最近では、産科の廃止は確実でNICUの休止も確実となっている。日立市にはこの病院
の他に産科の個人病院が一つあるのみで、まわりの様子を聞くと、既に水戸の病院に通って
いる人のことをよく耳にする。我が家の5歳の孫は、この個人病院で生まれたのだが、日立
総合病院にNICUがあったからこそ、安心していられたのだ。不妊治療を専門とするF医
院にしても、この総合病院がすぐ傍にあるから治療に専念できたのではないだろうか。 ..

 東京のように設備も人も最高の環境にあると思われている大都会でも、何ヵ所も受け入れ
を断られて命を落とすという事例が報道されているけれど、それは本当に病院や医師・看護
師だけに責任を負わせて良いものなのだろうか。当直明けにも通常の勤務に就かなければな
らない医療の現場はどこかおかしいのではあるまいか。産科や小児科の医師が少ないからと
いって医学部の入学定員を増やしても効果が現れるのは10年先のことであろう。   ..
 問題は、厚生省(今は厚生労働省)の医師養成の方針がくるくる変わることにあるのでは
あるまいか。教育ならば文部科学省の管轄だろうが、医学教育に文部科学省がどう関わって
いるかは知らない。新卒医師の研修期間を2年としたのを、医師不足が露呈したら1年に短
縮できるようにすると厚労省が言ったりしている。医学部の医局制度(今も医局があるのか
は知らないが)というのもおかしな制度で、大学病院が医師を派遣したり引き揚げたりとい
う地域の医療を左右する制度を何とか出来ないものだろうか。            ..

 こういうことをあれこれ考えていたら、医師が受精卵の取り違えの可能性(香川県立中央
病院)のために中絶を余儀なくされた事件が報道された。“命を扱っている”という意識が
なかったのだろうか。被害者の心情を思うとやりきれない思いがする。        ..

 





『ある出来事』  



 嫁いだ娘のところに、一年前にコウノトリが訪れたことを述べたけれど、実は、これまで
に何度も失敗を繰り返していた。その二年前にも「500グラムに育ったら帝王切開を考え
ましょう」と言われて入院していた。それがある日、「心音が聞こえない」ということが告
げられた。そして、病院の手術日に合わせて陣痛促進剤が打たれた。分娩が終って間もなく
は痛さから解放されて、娘は意外なほどケロッとしていて、医師から「強いね」と言われた
らしい。だが、病室へ戻ってからというものは、廊下から聞こえてくる他の児の産声に悩ま
され眠れない夜を過ごすようになった、「赤ちゃんを胸に抱き、子を育てる、ただそれだけ
の小さな幸せしか望んでないのに、どうして私だけがかなえられないの?」と泣かれても、
私はただ娘の手をじっと握っているほかはなかった。結局は、十分に身体が回復する前に退
院してきた。退院する前に、看護婦長さんから「(法律上)妊娠第○週を過ぎていると、役
所に届け、埋葬許可書を取らなければなりません。お母さんの気持ちが落ち着くまでいつま
でも病院でお預かりしますから、そのときが来たらいらしてください」ということだった。
私には、とてもその児に会うことはできなかった。ただ娘夫婦には「会ってあげなさい」と
言っておいた。                                 ..

 “預かっている”といっても分娩室かどこかの冷蔵庫の中だと聞いて、「寒いだろうに、
可哀想!」という気持ちだった。引き取りには、何か箱を持ってくるようにということだっ
た。葬儀屋に電話をすれば小さな棺が用意できただろうが、ただひっそりと見送りたくて、
全く考えもしなかった。妻が「何とかして!」というものだから、悲痛な気持ちを抱きなが
らホームセンターに行き、材料を購入してきた。                  ..
 家に帰って、縁先でギコギコ鋸を使っていると、事情を知らない隣りの奥さんから塀越し
に「ご精が出ますね。何が出来るんですか?」と声をかけられた。あいまいに返答したもの
の、私は涙ながらに作業を続けていた。まさか、この手で棺を作ることになるなんて思いも
しなかった。                                  ..

 一ヵ月くらいしてからだったのか、娘の気持ちも落ち着いてきて嬰児の遺体を引き取るこ
とになった。それにしても骨壷はどうしたらいいんだろう? 裸のままということもないだ
ろう? いろいろ考えながら、妻が水戸のデパートにヒントを探しに出掛けた際に、ふと目
にした仏具屋に立寄って事情を話すと、分骨用の壷があることを教えてくれたそうだ。 ..
 娘夫婦は、気持ちが落ち着くにつれて、失った児を“空(そら)ちゃん”と呼ぶようにな
っていた。いよいよ婿さんが空ちゃんを迎えに行くと、婦長さんが丁寧に洋服を着せ帽子を
被せ、靴も履かせてくれた。帰るときには、産科の医師・看護婦総出で見送ってくれたとい
う。その様子を聞くと、新たに涙してしまった。                  ..
 私は、空ちゃんを一目見たのはいつのことだったのだろう。婿さんがアパートに連れ帰っ
たときだったのか、翌日、火葬したときだったのだろうか。目がパッチリしたハンサムな児
だった。火葬は、坊さんも呼ばず、娘夫婦と双方の両親の6人だけで執り行った。時間は普
通の大人の半分もかからなかった。脛だという骨は、針金のように細い細いものだった。..
 納骨は、いずれ義母(空ちゃんにとって曾祖母)の墓に一緒に入れることにして、娘夫婦
のアパートに連れ帰ってきた。その後、寝室の棚の上に安置して、毎日拝んできた。  ..

 娘のところに双子が生まれ、NICUを二人目も卒業する頃になって「そろそろ(退院前
に)空ちゃんの納骨をしたい」と言われたのだが、私は「一晩でもいいからこども達三人揃
 って、親子5人で過ごしたら?」と提案した。空ちゃんは双子の身代わりではないんだから。
 結局、手続きの確認やらで手間取って、十日ぐらいは一緒に過ごしたはずである。  ..

 間もなく、双子の孫の満一歳の誕生日。と同時に女の児にとっては初節句。雛人形は35
年も前に義母が用意してくれた娘の七段飾りがあるから「いいじゃないか!」というのに、
娘も妻も「それはそれ」といって、ガラスケースにはいった一対を求めてきた。    ..

 明日は、誕生日。私たち双方の祖父母も集まって、外で誕生祝をすることにしている。..


* * * * * * * * * * * *


 双子の孫の誕生により、命の問題・医療の問題・福祉の問題、いろいろ考えさせられる一
年であった。                                  ..

 三つ目の話は、意図的に『ある出来事』と曖昧なタイトルにした。この世に生を享ける前
に逝ってしまった空ちゃんへのレクイエムのつもりもあって書いておくことにした。何しろ
迷った末に写真を撮ることもしなかったけれど、“もうひとりの孫”がいたことは確かなの
だから。                                    ..
                            (2009/02/20:書き始め) ..
                            (2009/03/02:最 終 稿) ..
                            (2009/03/13:修  正) ..
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  下の文章は、2008年9月の『朝日新聞・声』に掲載された知人の投書です。
朝、これを目にして「うちの孫が新聞に載ってるよ!」と家内に声をかけま
した。家内は、書いた方ともう一人の女性と三人で毎月集まる仲なのです。
我が娘が孫をひとりだけ車に乗せて、家内を迎えに行って「お披露目」をし
たという次第で、留守番の私はもうひとりの「孫かで」をしていたのです。

 投書が掲載された夜、盛岡の兄から電話がかかってきて「これ、お前のと
ころのことじゃないのか。」というわけです。「そう! 家の孫が新聞に載
ってる」と返事をしたのでした。                  ..


      


 後日、この方のところに某政党<野党>国会議員の事務所から「枡添大臣
のところに行きましょう」という電話があったということです。結局は大臣
よりもご本人の都合がつかず小渕大臣に手紙を書き、大臣から返事があった
ということです。                         ..





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