在京白堊三五会 フィリピン慰霊巡拝(村野井徹夫)


岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・『フィリピン慰霊巡拝の旅―その1―』 by村野井徹夫

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 1月20日から八日間、政府派遣の戦没者慰霊巡拝事業に参加して父が戦死したフィリピン
での慰霊の旅をしてきた。父が戦死したのは昭和20年6月15日である。母が若いころは父
が所属した部隊名なども口にしていたのだが私はそれを記憶しないまま母は2年前に亡くなっ
た。                                       
 今回の募集要項では全国から60名(20名ずつ3班)10日間という募集であったのだが
出発前日に成田空港近くのホテルで行われた結団式に集まった遺族は82名で日程も一日短縮
され4班編成であった。各班には厚生労働省職員2名と添乗員1名が加わっている。応募者は
150名もあったということだ。私の班は第3班で遺族は18名、班長は団長のY氏で遺骨収
集や慰霊巡拝事業全体の企画・立案・実施についての専門官で、何年か前には外務省に出向し
てモスクワ大使館の一等書記官を務められたということである。            
 成田を離陸して五時間、マニラの空港に着陸するときは「来たよう!」と思った途端に涙が
こぼれた。                                    
 マニラに着いた初日と終わりの二日間は全員マニラ・トレーダーズホテル(五つ星)に宿泊
したが、全て班ごとの行動である。班によって10名〜34名とばらばらである。第3班は二
日目はピナツボ山を西方にみるクラークに一泊したほかは毎日マニラのこのホテルを拠点にし
て慰霊の地に大型バスか船で往復した。バスには2名の女性の現地ガイドがついた。ガイドに
なるには試験があってフィリピン政府の免許が要るということだ。           
 この慰霊巡拝団は全国の遺族を代表して、それぞれの戦没地における現地慰霊と全戦没者を
慰霊する合同追悼式に参加して無事帰国するのが使命なので観光も自由行動も一切なく、禁足
令が出された。中には朝の散歩に外に出た人もいたようだが、ホテルに入るのにも毎日麻薬犬
と金属探知機のお世話になる状況では私は外に出る気にもならなかった。        
 最初の現地慰霊は、私の父がその対象であった。岩手県庁から取り寄せた父の軍歴書による
とマニラ北方山中にて戦死ということになっている。団長によると、マニラ北方と言ったらル
ソン島北端まで含んでしまうけれど、ピナツボ山とか具体的に記されていないということは山
中と言っても小高いところを意味しているだけでマニラの中心部からさほど遠くないところと
考えられる。月日については帰還者がいない状況では連絡が途絶た日付なのだということだ。
そのようなことから、現地ガイドに調査してもらったドゥハットという地区で現地慰霊をする
ことになった。                                  
 フィリピンではカーナビがあるわけではなく、詳細な地図もないらしい。運転手の記憶と勘
が頼りなのだということだ。父の慰霊の地に行くときも1時間ほど行ったら工事か何かでバス
が通り抜けられなくて一旦出発点近くまで戻って別のルートを通る羽目になり予定よりもかな
りの時間を要した。周辺には住宅も立ち並ぶ道路わきの原っぱのようなところに着いて、住宅
の向こうに見える丘に向かって現地慰霊祭を行った。                 
 白布をかけた簡単な祭壇を設け、その上には“戦没者の霊”と書かれた木の札が立てられ厚
生労働省が用意した供物が供えられた。祭壇の後ろに日章旗を掲揚し、祭壇脇に厚生労働大臣
名の小さな花輪が二基用意された。私は持参の父母の遺影を飾り缶ビールを供えた。政府主催
の部分は宗教抜きで全員の黙祷・献花が行われた後、自由に線香を手向けたりするというもの
であった。                                    
 花束をあげながら、私は「兄さんやみんなも一緒に来たかったよ」と父に語りかけた。父母
の遺影を飾ったことを「良かったねぇ。私もそうすれば良かった」と褒めてくださった方がい
た。“宗教行事”の段になって、団長が「煙草を供えていいですか」と仰って線香と一緒に立
ててくれたのはありがたかった。私は三歳の頃に父にビールの泡を舐めさせてもらった記憶が
あるので、缶ビールを開けて祭壇の後ろに垂らし、残りを一気に飲み干した。      
 団長は「供物はホテルに持ち帰って食べてもいいですがどうしますか」と仰ったのだが、周
辺に集まった人への贈物になるのだということだったのでそこに残してもらうことにした。バ
スに戻って次の地へ出発するときには子供づれのお母さんの手に乗っていた。      

 その日はさらに三ヵ所を移動して合計八名の慰霊を行った。現地の観光局が建てた平和観音
宮(原文どおり)や特攻兵の像の慰霊碑もあった。このようにして五日の間に全員の慰霊が行
われた。中には遺影のほかに眼鏡・レコードなどの遺品を持って来られた方がいたし数珠を握
り締めている人もいた。大阪から来られたIさんが必ずハーモニカを取り出して“ふるさと”
などの童謡を演奏してくれて声を合わせて歌った。                  
 どこでも私たちが慰霊祭の準備をし始めると、すぐ周辺の住民が集まってきた。モンダルバ
ン河では現地慰霊を見守る周辺住民に混じって肩に彫り物のある日本人が手を合わせている姿
を見かけた。団長に言ったら「日本で食い詰めてフィリピンに住み着いている日本人が結構い
るんです。敢えて声を掛けないことにしています」と言っていた。           

 マニラでは日本軍の司令部だった建物の前で現地慰霊をしたのだが、その建物は公園の中に
廃墟となって残されていた。その建物の壁には無数の弾痕があり、周辺には使用した爆弾が山
積みにされていた。こんな物量の違う中で戦わされた将兵のことを思うと私は涙とともに怒り
がこみ上げてきた。                                
 ミンドロ島の見える場所を探してたどり着いた海岸では私の持っている温度計は36℃を指
していた。真夏ならば何℃になるのだろう。                     

 慰霊の最終イベントはマニラから60キロほど離れたカリラヤにある日本政府が建てた慰霊
碑の前での合同追悼式である。慰霊碑は大きな黒御影石の上に白布で包んだ骨箱を模した石碑
が据えられ、後ろの壁には“比島戦没者の碑”と刻まれた白御影石がはめ込まれていた。会場
にはテントが張られ、参列者用にプラスチックの椅子が置かれていた。周辺には都道府県知事
から託された花輪が22基据えられていた。                     
 追悼の辞は団長・日本国全権大使(公使代読)・遺族代表の三人が読んだ。団長の追悼文は
当時の状況を盛り込んだ心打たれる内容だった。大使は日比親善を謳い、遺族代表は戦没者の
 子の中の最年長者が戦没者への思いを述べた。その後、四名ずつ次々と献花拝礼して終わった。
 追悼式の後、岩手県出身者としては茨城県よりも岩手県知事名の花輪を探したら茨城県と並
んでいた。そこには岩手県から参加したSさんがいた。八日町に住んでいたという。   
 今回の慰霊巡拝の旅は、高級ホテルに滞在し、冷房の効いた貸切バスで移動するだけで人々
 の生活の実態を知る機会は全くというほどなかった。ホテルの朝食は毎日同じもので“飽きる”
と一瞬思ったのだが、父はこの地で食べるものもなく亡くなったのだと思うと「贅沢は言うま
い」と自分を戒めた。バスで移動中の昼食は旅行会社が調達した幕の内弁当だったり、レスト
ランに寄った。夕食も予約したレストランで戦没者への申し訳なさを抑えながら、日替わりで
中華料理・韓国料理・和食・フィリピン料理を味わった。               
 現地ガイドによるとフィリピンは貧富の差が大きいけれど貧しい人でもそれを不幸とは思っ
ていないのだということだ。また、彼女たちは日本軍のしたことは戦争中のことでやむを得な
いことだった、今はフィリピンにとって日本という国が重要なのだと強調していたが、私と同
年代の彼女たちも親兄弟を失っているかもしれないと思うと辛い言葉であった。戦争は“許す
ことはできる。だが、忘れることはできない。許さなければならない。”と言う彼女たちの言
葉が心に残った。                                 

 私は、父の軍歴書の記録があまりにも簡単なものなので所属部隊の名簿など閲覧できないの
かと団長に訊いたのだが“部隊略歴”が不明で軍歴書以上のことは分からないのだということ
だ。それと個人情報保護法の施行以来“公文書”の調査もしにくくなっているということらし
い。防衛研究所や国会図書館などで戦友会などの書いた資料を調べることを勧められた。 
 フィリピン方面の戦没者は52万人にも及ぶということだが、昭和52年から始まった政府
派遣慰霊巡拝に参加できたのは二千名程度ということである。戦後65年、遺族も高齢化し減
っていく現状では希望するものは誰でも慰霊巡拝に参加できるような予算措置をお願いしたい
ものだ。遺骨収集についても“オレが行くまで放っておいて欲しい”と思った時期もあるけれ
ど、望郷の念を抱いて亡くなった戦没者のことを思うと一日も早く、一体でも多くの遺骨を連
れ帰って欲しいものだと今は思う。                         
                                書き始め:2010/03/03頃
                                完  了:2010/04/30
その2は ここ


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