在京白堊三五会 フィリピン慰霊巡拝(村野井徹夫)


岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・『フィリピン慰霊巡拝の旅―その2―』 by村野井徹夫

「その1」を補う内容です。
読後感を掲示板にお寄せ下さい


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『はじめに』

 私の父は、1909(M42)年2月13日に盛岡に生まれ、1944(S19)年6月
20日に応召、翌・1945(S20)年終戦の2ヵ月前の6月15日にフィリピンにて戦
死した。私はそのときあと1ヵ月で満5歳になるところであった。といっても、戦死公報が
入ったのは担任の先生が何人かの級友と一緒に来たことを覚えているので、私が小学校に入
学した1947年のことだったと思っている。                   

 盛岡の家の仏壇にはフィリピンの石が載っている。これは、かれこれ20年前になるのだ
ろうか、旧・本町にある“ぞうみ飴”製造元のご主人がフィリピン慰霊巡拝団に参加したと
きに採取してきたものを何かのきっかけで兄が戴いてきたということだ。そのようなことか
ら、私は国の事業として慰霊巡拝が行なわれていることは知っていた。私も、いつかは慰霊
巡拝団に参加して、父の終焉の地をこの目で確かめたいものだと思い続けてきた。しかし、
大学に勤めている頃はそう簡単に休暇をとることもできなかったし、定年間近の頃には母が
寝たきりになって、父の慰霊の旅など考えられない状況となっていた。        
 その母も、2年前の2月に浄土へ旅立ち、1年後の昨年一周忌の法要を済ませてほっとし
 ていたところ、6月の日立市報に“フィリピン慰霊巡拝団への参加募集”の記事をみつけた。
調べてみると、半年以上先の1月に実施されるということだった。応募しても必ずしも選ば
れるとは限らない上に、経費がどれくらいかかるのかも分からないながらも準備するには十
分な時間がありそうだと覚悟を決めて応募することにした。             
 結局は、念願かなって選考にパスして、1月20日から27日まで政府派遣のフィリピン
慰霊巡拝団の一員となって慰霊の旅をすることができた。このことについては本稿と同じタ
イトルで「その1」としてまとめた。そこには、参加の経緯(いきさつ)やらフィリピンの
人びとの暮らしや滞在中のエピソードには何一つ触れていない。報告書ならば、「その1」
が“正本的”なものとすると、「その2」は“副次的”なもので、「その1」では取り上げ
ることができなかったエピソードなどを主体として書くことにする。         


『内定まで』

 私は去年の6月、定額給付金を使って沖縄の戦跡めぐりをしてきた。ホントは沖縄よりも
父の慰霊のためにフィリピンに行きたいものだと長いこと思っていたのだが、準備も経費も
かなりかかるだろうと思って、沖縄に行ったのだ。そんな折、日立市報に“フィリピン慰霊
巡拝団の参加募集”の記事が掲載された。早速、担当係に電話をかけて書類を取り寄せた。
日程表によると、地域により20名ずつ3班(合計:60名)の募集で1月19日の成田で
 の結団式を含め、十日間の予定ということであった。「参加する遺族は、政府の代表者です。
単に親族の慰霊という目的だけでなく、実施地域で亡くなったすべての戦没者の遺族代表者
であるとの自覚を持ち、慰霊を行う任務があることをご理解ください。」というものであっ
た。そのようなことから、「団体行動が原則で、個人行動はとらないように」とクギが刺さ
れていた。                                   
 必要書類としては、申請者(私)が戦没者(父)の遺族であって、過酷な旅行に耐えられ
る体力があることを審査する「内申書」と戦死を記した文書が必要であった。「内申書」に
は、戦没地域や階級を記入する欄があって、厚生労働省のホームページを調べてみると、兵
籍などは海軍なら厚生労働省に資料が残されており、陸軍ならば各都道府県に引き継がれて
いるということがわかった。そこで、父の除籍謄本と私の戸籍謄本(親子関係を証明)の交
付申請書を盛岡市役所に送り、岩手県庁には軍歴書を送ってもらうことにした。話は横道に
それるけれど、軍歴書は郵送料も含めて無料であった。「そりゃそうだよなぁ。勝手に戦争
に連れて行ったんだから、軍隊でどういう処遇を受けたかを教えてくれ、というのに金なん
か取られてたまるか」というものである。一方の除籍・戸籍謄本の方は有料であるのは良い
として、定額小為替の“料金”には腹が立つ。つまり、定額小為替は額面に関係なく1枚に
つき100円の料金が発生し、ぴったりの額面のものがない場合、何枚か寄せ集めてその枚
数分の料金を要求されるのだ。その上、簡易書留で送ることになる。このとき送った定額小
為替は1200円〔千円と2百円〕、2百円の定額小為替の手数料が百円だなんて、ばかげ
ている。                                    

 盛岡市役所も岩手県庁も折返し必要な書類を送ってくれた。軍歴書を見ると、最初の行に
昭和4年12月1日「第2補充兵役に編入」の記事――「徴兵検査」(註)なんだろうな。
2行目が昭和19年6月20日「教育召集により○○補充隊に応召(二等兵)」。○○の部
分に部隊名が書かれているが場所は不明――弘前のはず。8月26日「青森出発、盛岡着」
――弘前に面会に行った記憶があるので、大阪から盛岡に引っ越してきてすぐだったのか。
9月1日「△△の隷下に入る」、10月20日(一等兵)――この日までは盛岡にいたのだ
ろうか。盛岡出発と乗船の記事はなく、続く「ルソン上陸」の記事は日付欄は「不明」とな
っていて行を空けずに最後が6月15日なのだ。そこには「○△中隊在隊」及び階級が二つ
書かれ、最後が「ルソン島マニラ北方山中にて戦死」となっているだけである――戦死して
二階級特進ということなのか。                          
  (註)徴兵検査は4月16日〜7月3日にかけて全国的に行われた(ウィキペディア)ので、
     実際は徴兵検査後の記事ということになる。                  


 「内申書」には希望する班・地域を記入する欄があって、3班はレイテ島などルソン島以
外なのではずすとして、1班(ルソン島東部)と2班(ルソン島西部)となると“マニラ北
方山中”というのはどちらにしたらいいのかわからなかった。結局、ルソン島のかなり北に
あるトゥゲガラオまで行く第1班を希望することにした。              
 書類は、日立市役所から茨城県庁に回付され、まとめて厚生労働省へと提出されるという
ことだった。実施は1月下旬で日本なら真冬だが、行くとなるとどういう服装で行けば良い
のか、経費がどれくらいかかるのだろうか。それにしても選抜されるのだろうか、一体いつ
決定されるのか、など予め知っておきたいことは山ほどあるのに、茨城県や厚生労働省のホ
ームページをみても実施日程と概略図程度のことしか書いていない。思い余って、県の締切
よりも前に県庁の担当部局に電話をかけてみた。回答は「フィリピン慰霊巡拝は人気があり
まして、茨城県だけでも既に5名の申し込みがありますので選ばれるかどうか・・・」とい
うようなものだった。更に、国家公務員の出張旅費の三分の一が補助される、11月頃に内
定者が通知され、更に健康体であることの医師の証明書を提出し、最終決定は年末くらいに
なるというようなことが分かった。国家公務員の出張旅費と言っても、どういう地位を基準
にするのだろう? そもそも“人気がある”かどうかの問題ではなく、それだけフィリピン
での戦死者が多いから希望者も多いだけの話なのだし、どれだけの経費がかかるのか概数だ
けでも知りたいものだ。                             

 厚労省と茨城県から内定通知が届いたのは、11月半ば過ぎである。参加希望者が多く4
班編成で内定者は102名、私は第3班(ルソン島南部)になっていた。行き先はほとんど
マニラ周辺だけである。厚生労働省で調べた結果がそういうことなら「まっ、良いか!」と
思った。人数は班によって14〜40名とアンバランスである。第3班は20名であった。
後になって判ったことだが、20名ずつ3班というのは表向きの話であって応募者の希望を
考慮していろいろ戦没地点やルート、そしてそれに伴う予算を検討して班編成や日程を決め
たということらしい。                              
 日本旅行からは渡航手続きを説明する書類や、海外旅行保険の申込書、前泊・後泊の案内
書などが届いた。旅行保険は怪我や病気だけでなく、死亡したときなどの遺体引取り費用は
ざっと100万円かかりますよ、というようなことが書かれていた。出発前日の結団式は夕
方なので日立を朝の高速バスで行くことにしたが、帰国は成田に夜の9時頃に到着予定なの
で後泊を申し込んだ。最初は東横インを予約していたのだが、結団式の行われるホリデイイ
ン東武成田では帰国するまでコートだけは無料で預かるというので、変更した。実際に成田
空港に行ったら、ボストンバッグ一つくらいの荷物は十日間くらい3千円ほどで預かってく
れるクロークサービスをビジネスにしているところがあった。こういう情報が判っていたら
行き帰りの服装の心配などしなくて済んだのにと悔やんだものだ。          

 内定者は「慰霊巡拝では風土の異なる地において航空機や車両により長時間の移動」をす
るのでそれに耐えられることの医師の証明書を12月7日までに県庁に提出するようにとい
うことであった。私はかかりつけの田村医院(白堊の先輩)に予めメールでお願いして、毎
月の診察の日に書いていただいて送った。この審査に通って晴れて「決定通知」(12月下
旬)を受け取ることができた。旅行業者へ支払う額は年が明けるまで判らなかった。今年が
初めてのことではないのだから、去年までの実績くらい報せてくれても良いではないか。応
募者の身になって考えてみれば、初めから募集案内に概数(註)だけでも記載されていて然
るべき数字なのではあるまいか。「国家公務員の出張旅費の三分の一を補助する」というだ
けでは年金生活者にとって、応募したくても躊躇するものがあった。         
  (註)後になって、群馬県のHPにはフィリピンだけではなく、全慰霊巡拝事業の積算額が
     記されているのが分かった。全て班別の積算額が示されている。        



『出発準備』

 内定してから急に“出発準備”をしたわけではない。日立市報の募集記事を読んだとき、
時間があったらフィリピン大学を訪問できないかと考えてホームページを調べたりした。だ
が、自由行動は一切できないと判った時点で夢と消えた。              
 フィリピンと言ったら父が戦死した地というだけでモンテンルパ・キリノ大統領・マグサ
イサイ大統領・多額の戦後賠償金(註)・タガログ語・「俘虜記・野火」(大岡昇平著)こ
んなものしか思い浮かばない。地理的なことも良くわからない。少しは予備知識が必要かと
思って“地球の歩き方・フィリピン”を買い求めた。俘虜記も読み直してみた。俘虜記には
日本兵の残虐行為は書いてないけれど、モンテンルパで多くのB・C級戦犯が死刑に処せら
れたことは事実である。                             
   (註)1956年、日本は国家予算の0.8%に相当する額を20年間フィリピンに賠償する協定に
      調印している。当時、私は中学生。国民は赤ん坊も含めて20年間毎年○○円払うのだという
      新聞記事を読んだ記憶がある。                           
      〔賠償金総額:1980億円、国家予算:1兆2325億円〕(ウィキペディア、財務省統計)


―感染症対策―

 “地球の歩き方”を読むまでもなく、フィリピンは新型インフルエンザとかマラリアが心
配な地域というのは知っているが、その対策はどうすればいいのか。他の感染症は大丈夫な
のか? この本で一番役に立ったことは、「生水は絶対に飲んではいけない」ということで
あった。ミネラルウォーターしか飲んではいけないというのだ。レストランでもビールが冷
えてないときなどウェーターが氷を入れることがあるというのだが、その氷も危ないのだ。
実際にマニラに着いたその夜の会食のときに、同じ班の女性はグラスに氷を入れてビールを
注がれそうになったということだ。                        
 マラリアのほかに、フィリピンは貧しくて飼い犬もほとんど狂犬病の予防注射をしていな
いので噛まれないようにということが書いてあった。ウェブで調べてみると、狂犬病は発症
したらほぼ100%死に至るということだ。死ななかったのは世界で3例しかないのだとい
う。マラリアは蚊に刺されないようにするのが“一番の予防法”と言っても、蚊に好まれる
体質の私としてはどうしたらいいのだろう。1月でも蚊がいるのだろうか。何も判らなかっ
た。これもウェブで調べてみると、日本の防虫剤は防虫成分が薄くて効き目が悪いと書いて
あるかと思うと、防虫スプレーや蚊取線香の使用が勧められていた。そうは言っても、蚊取
線香は使い残しがあるけれど、今時(12月)防虫スプレーと言われてもなぁ!    
 昔から、二人部屋に下宿していたときも蚊や蚤は同宿の相棒よりも先に私がやられてしま
うのが常だった。1月2日になって、夏に電池式ベープ(フマキラー)を使っていたことを
思い出し、メーカーの“お客様窓口”にメールで照会してみた。正月にもかかわらず、すぐ
回答があって、“海外の蚊に有効かどうかのテストはしていないけれど、全ての蚊取剤の併
用を勧めている”ということと通信販売の取扱会社を紹介してくれた。結局、そこのホーム
ページを調べて、機内持ち込みの可能な防虫スプレーや電池式ベープ、蚊取線香の吊り下げ
具を取り寄せた。                                
 蚊は夜活動する。着るものとして蚊に刺されないためには、白い長袖・長ズボンが良いと
ウェブのどこかに書いてあった。そこで、ホームセンターに行ってテニスウェアとしても着
られる長袖のシャツを6着ほど購入し、そのほかに薄手のジャンパーを1着とズボンは1本
余分にもって行くことにした。結果的には、蚊が出たという班もあったらしいが第3班につ
いては杞憂であった。犬については、首輪のない痩せた犬が近くに寄って来てチョッと怖い
思いをしたけれど、考えてみたら“狂犬”がいたら現地の人がいっぱい“やられている”に
違いない。                                   

―IT環境―

 私は手帳をもっているけれど、ペンや鉛筆を使ってメモを取るのが苦手である。要約筆記
なんて無理で、せいぜいキーワードをメモするだけである。そのようなことから、日ごろ紙
に文章を書いたりするよりも直接パソコン(PC)を使って記録したり書いたりしている。
今回の慰霊巡拝の旅でも日誌をつけるならばPCを使うことにした。日誌をつけないにして
もフィリピンは私にとっては特別の場所、写真をいっぱい撮ることになるので、写真の整理
はPCを使って毎日実行する必要があると考えた。写真の整理だけではない、プライベート
なホームページの更新も中断せずに続けたいものだ。それにはインタネットが使える環境に
あるのだろうか。“地球の歩き方”を読むと、多くの高級ホテルでは有線LANが使えるよ
うだ。ただし、IT環境が未知の国では何かトラブルがあってPCが毀れては一大事、デー
タが復元できなくなってしまう。つい最近も、PCが立ち上がらなくなって、出荷時の状態
に戻さざるを得なくなり懲りていた。この際、中古PCを購入することにして、結局は、こ
れまで使ってきたノートパソコンと同じメーカーのものをインタネットで購入した。1万9
千円ほどだった。電源電圧は100−240V対応である。             
 「決定通知」が届いた時点で、私の班の宿泊地はマニラが7泊、あとの1泊はクラークと
いうことが判った。そこで日本旅行に問い合わせマニラのホテル名を聞きだした。トレーダ
ーズホテル・マニラである。ホームページを調べたりメールで照会してみると客室は全てブ
ロードバンド・インタネットを無料で使うことができることがわかった。電源は220Vで
3本足のプラグタイプの図が描いてあるけれど、ユニヴァーサル・アウトレットという言葉
も今少し判らない点があるため、どのタイプのプラグにも対応できるアダプターをケーズデ
ンキで見つけて購入した。                            
 クラークのホテルはホリデイ・インなのだが、ここのインタネットは1時間あたり5米ド
ルの有料だった。ここではフロントで予めIDとPWをもらう必要があったのだろうが、事
情が呑み込めなくて使わなかった。                        

―フィリピン慰霊巡拝のしおり―

 年が明けて一週間経った頃に、県からの「所要経費の通知」と厚労省からの「フィリピン
慰霊巡拝のしおり」、日本旅行からは「請求書と“旅のしおり”(携帯用と留守宅用)」が
相次いで送られてきた。県の“通知”は航空運賃とか滞在費・手続き費用等の内訳と国庫補
助の額が記されていた。所要総額は班によって19万2千円〜23万円と異なっており、個
人別補助金額は私の場合6万6千円であった。これには県庁所在地(水戸)から成田空港ま
での国内旅費の三分の一を含んでいる。ただし、補助金は個人に支払われることなく一括し
て日本旅行に支払われるということである。従って、日本旅行からの請求額はこの所要額に
後泊料金・海外旅行保険金を加えたものから補助金額を差し引いた額である。     

 旅行における注意事項は、厚労省と日本旅行それぞれの“しおり”に書いてあるのだが、
 機内に持ち込めるもの・持ち込めないものという類の注意事項は具体的で判りやすいけれど、
“感染症対策”となると具体的にどうしたらよいのか判らなかった。判らないものの一つに
小遣いの話がある。慰霊巡拝の旅ではどこかでお金を使う機会があるのかどうかも判らず、
円やドルあるいは現地通貨(ペソ)をどれだけ持って行ったら良いのだろう。特に、日本旅
行の“しおり”には「日本出国時の通貨の持ち出しは自由だが、100万円以上のときは申
告が必要」とか、「ホテルや銀行で両替できるので1000円札を多めに持っていくのも便
利」などと書いてあると迷ってしまう。これは一般の観光客向けの話なのではあるまいか。
行く人の身になって書いてもらいたいものだ。私は万が一、ひとり取り残されても成田まで
帰って来られるだけの日本円を半分は1000円札にして持っていくことにした。だけど、
 治安が悪い噂を耳にするので胴巻きを買ってきて、それに入れて身に着けて行くことにした。
だが、最高気温が30℃を越すフィリピンで“腹を温める”のは気が重かった。実際には、
成田空港の売店で腰に巻きつける財布が売られていて購入した。2千円だったと思う。小遣
いについては最初から現地ガイドがホテルに話をつけて一人当たり1万円分の現地通貨(4
千800ペソ)を用意しており両替してもらった。「これで十分」というのだ。    

 厚労省の“しおり”によると参加遺族の数は85名に減っており、結団式のときにはさら
に82名になっていた。第3班は内定時に20名だったものが18名に減った。全体として
は、参加者は内定時よりも20%減っており医師の証明が得られなかったのか、あるいは過
酷な気候風土・日程のために辞退したのであろうか。                
 “しおり”の各班の参加者名簿には、県名・氏名・続柄・戦没者氏名・戦没年月日・戦没
地点が記載されていた。岩手県の参加者は1名、茨城県は5名である。82名の遺族のうち
“子”は53名、あとは弟妹である。戦没者81名(遺族の数より1名少ない)の戦没年月
日をみると67名が昭和20年であり、中には同じ日に同じ地点で亡くなっている人が何組
もあった。また、昭和20年8月15日以降に亡くなった方が3名いるが、この人たちは終
戦を知らずに亡くなったのであろうか。私にしても当時の戦況や対米交渉など歴史的事実を
知れば知るほど“なぜもっと早く終戦にできなかったのか”と軍部・為政者への不信感が募
るのだから、この終戦の後に亡くなった方の遺族はさぞ悔しい思いをしているに違いない。
 “しおり”の四分の一は「フィリピン方面における戦闘概要」が記されている。詳細に読
んだわけではないが、「・・・陸海軍部隊一体となって終戦まで死闘・・・。特にマニラ市
において、米陸軍の精鋭3個師団を相手として約1か月にわたる死闘の後、遂に玉砕したマ
ニラ海軍守備隊の勇戦はたたえられるものであった。」というような美化するような表現は
私には気に入らない。どういう立場の人間が書いたものなのだろう。こういうものは出典を
記して欲しいものである。                            
 もう一つ気に入らないことは、“募集案内”や“しおり”に描かれているフィリピンの地
図である。各班の慰霊地やルートを示す“概略図”であるので、正確なものを求めるつもり
はないが激戦地で知られるコレヒドール島の位置と形がでたらめなのである。コレヒドール
島はマニラ湾の入り口にある要衝でオタマジャクシの形をしている、というのはちょっと調
べてみるとわかることだが、頭と尻尾の関係が東西逆向きに描かれているし、マニラ湾の北
側・バターン半島の側に位置しているのに、ほとんど南側の地に接しているように描かれて
いる。“些細な、どうでもいいこと”のようにも思われるが、私は“扱いが雑だなぁ”とい
う印象をもった。この慰霊巡拝事業に誠実に取り組む人ならば、もっと本当らしく描くので
はないだろうか。この概略図は何年も同じものが使われてきたのだろうけれど、厚労省のホ
ームページにもこの図が載っており、募集案内と一緒に配られた“公文書”としてはいただ
けない。遺族としてはこのような“お粗末”には「もっと真面目にやれ!」と腹がたつ。


―結団式―

 参加者は、出発前日の1月19日に“成田空港に一番近いホテル”という謳い文句のホリ
デイ・イン東武成田に終結し、結団式が行われた。午後3時半からの受付の前にチェックイ
ンをしておくことということで、私は日立駅7時30分発の成田空港行きの高速バスに乗っ
た。到着は11時ころであった。成田空港には10数年ぶりに行ったので、戸惑うことばか
りであった。ホテルのシャトルバスの乗場を探すのがまず一苦労。スーツケースは18日に
届くように宅配便で送っておいたら既に部屋に入れられていた。このホテルのレストランで
昼食を摂ってからチェックインした。旅行中は二人部屋で、どこの誰かも分からない人と四
六時中一緒にいることになるのかと思うと、何かと気がかりであった。一人部屋なら6万円
ほど高くなる上に、寝坊防止のために二人部屋にしておいた。            
 相部屋の人は、ひと回り上の方で誕生日が来れば82歳のおじいさん――傍(はた)から
みれば私自身“立派な”おじいさんなわけだが――。といっても元気な方で、フィリピンか
ら帰った後、2月は志賀高原、3月は十日間ほどスイスにスキーに行くのだということだっ
た。いずれも夫婦同伴でハンドレッドスキー〔夫婦合わせて100歳以上〕というグループ
に属しているということだった。私は、旅行中PCを使うためにデスクを独り占めにしてこ
の方には大分迷惑をかけてしまった。                       

 結団式の受付は3時半からというのだが、30分以上早く会場の様子を見に行ったら、何
となくそのまま入場することになった。会場は班毎に区分けされ席も北から順番に指定され
ていた。私の席は一番前で隣は北海道の男性と埼玉の女性。左隣の北海道の男性がしきりに
話しかけてくるものだから、右隣が女性だったというのは名簿をみて改めて気がついた。机
上には最終確定した“団員名簿”とチャックつきの透明なビニール袋が置かれていた。袋の
中には飛行機の搭乗券、渡航手続き書類やら首から提げる名札、スーツケースにつけるネー
ム入り荷札・手荷物とスーツケースに結びつけるリボン、海外旅行保険の書類等がはいって
いた。                                     
 参加者は、暮れに確定したと思った人数よりも減り、更に当日辞退を連絡してきた人もあ
って82名となった。厚生労働省の職員が各班に二人と添乗員は各班ひとりで、団長は第3
班の班長でもあった。                              
 団長の話は、「この慰霊巡拝は全ての遺族の代表者であるから個人行動はできない」とい
うことに尽きると思う。参加者の勝手な行動で何かが起きると、班全体の行動が遅れるだけ
でなく、今後の慰霊巡拝に予算の面でも参加希望者にも影響が出るから、観光したい人は別
途自費で行ってもらいたい、というものである。最後のカリラヤにおける“合同追悼式”の
日には、時間が許せば――交通渋滞に巻き込まれなければ――みやげ物店に立ち寄るという
ことだった。ほかに、遺族代表の追悼の辞は“子”のうちの最年長者の第4班・T氏(京都
府)にお願いする、初日の日本大使館の表敬訪問は各班からひとり選んで欲しい・・・なぁ
ーんだ、全員で行くのかと思った。                        
 添乗員は、入出国書類の記入を“指導”してくれて、パスポートを入出国書類と一緒に透
明なビニール袋に入れて肌身離さず持っていること、常に名札を首から下げていること、ス
ーツケースと手荷物に班別の色のリボンを結ぶよう指示された。           
 合同追悼式では、各都道府県知事名の花輪も並ぶから、その前に並ぶようにというような
ことがアナウンスされると、埼玉県から来られた方がひとり県と遺族会から現金を預かって
きており、埼玉県の人たちを集めて写真を撮ってくるように言い付かっている、というよう
なことを発言した。それは、日本旅行で預かって花輪を用意するというようなことだった。
他の都道府県も誰かが預かっているか直接、代理店に依頼していたらしい。      

 班毎に分かれての打ち合わせでは、班長(団長)が「水はミネラルウォーター以外飲んで
はいけません。ホテルで毎日1本ずつ用意するほかに、日本旅行が毎日2本ずつ配ります」
ということと「トイレ事情は日本とは全く違います。トイレタイムにはその気がなくても搾
り出してください」と強調した。                         


  『慰霊巡拝の旅』

 前置きが長くなったけれど、いよいよ本論の段である。ここでは、平成21年度フィリピ
ン慰霊巡拝の第3班の出来事やその時々に感じたことを前後には関係なく、思い出すまま記
すことにしたい。                                

―出発からマニラ到着―

 出発当日は、7時にホテルロビーに集合し、ホテルのバスで成田空港に向かった。飛行機
は、9時30分発JO741便である。日本航空は、前日1月19日に倒産し会社更生法を
申請した。このニュースは出発の時点で私たちも知っており、何でこんな時期にJALの飛
行機に乗らなければならないのかという思いがあった。飛行機に乗ってから、機長とチーフ
キャビンアテンダントの「いろいろとご心配をお掛け致しましたが、安全運行に務めますの
で・・・云々」というようなアナウンスがあった。                 
 添乗員のNさんは、搭乗手続きのとき最初はJALの係員から「人手が足りないので各自
端末を操作して手続きをしてほしい」といわれたらしい。だが、団長の「それならJALを
使う意味がない」という一言でJALの係員が端末の操作をすることになった。端末がずら
りと並んではいても、PCなど触ったこともない年寄り集団に端末操作をさせては時間ばか
りかかって出発に間に合わなくなってしまう。尤も、銀行の端末のようにタッチパネルにな
っているのかもしれない。                            

 日本とフィリピンの時差は1時間だが、私の腕時計は標準電波時計なので修正できないた
め、かわりに携帯用のディジタル目覚まし時計を予めフィリピンの時刻に合せて持っていっ
た。ほかに、時計が関係するものとしてPCとディジカメ、そして血圧計(註)をもってい
る。こういう機器は容易に時刻の修正はできるものだが、JSTのままにしておいた。もっ
と時差の大きい国に行ったら、こういうわけにはいかないのだろうなぁと思ったものだ。
   (註)私は普段から血圧が高く、降圧剤を毎食後服用しているし朝昼晩と血圧を測定している。
      今回の「内申書」にも“高血圧であるが、投薬でコントロールできる”と記した。降圧剤も
      取り出しやすいところにいれておいた。現地では緊張の連続で血圧は常に高めの値となり、
      160mmHg以上のときに飲む様に処方されている薬を二日に一回は飲む状態であった。 


 スーツケースの保安検査は無事通過、PCのはいった手荷物(リュック)のほうは確認の
ためにPCを取り出して再検査を受けた。飛行機の座席は窓際で着陸のときは誰にも涙を気
取られることなく額を窓にくっつける様にして外を眺めていた。戦後65年は父の死後65
年でもある。成田を発って5時間足らず、やっと念願のフィリピンに到着したのだ。  

 フィリピンの入国審査はやや手間取った。着陸後、若い女性がぞろぞろ歩いている今降り
たばかりの客に赤外線センサを向けて熱のある人をチェックしていた。花のレイ(註)を首
にかけられたのは審査官のところを通過してからだったのだろうか。その後の税関検査のと
ころは一般客がすいすい通っていくのに、我々はスンナリとは通してくれない。現地慰霊で
使う折りたたみの机や花輪などのはいったダンボール箱の山を指して何か言っている。“ダ
 ンボールの中身のリストはあるのか”と訊いているのだということだった。団長が「なんだ、
金を出せということか!」と言って前に進み出て行った。お金を差し出したかどうかは見て
いなかったが、ぞろぞろと出ることができた。                   
 首にかけてくれた花は、現地ガイドによるとフィリピンの国花なそうでサンパギータとい
うのだそうだ。濃いブルーの花だった気がするのだが、ウェブで調べるとサンパギータは白
い花。どこで間違ってしまったのだろう。手荷物につけたリボンの色と記憶が混同したのだ
ろうか。三日くらい経ったら、すっかり萎れてしまった。植物検疫法に触れるので“残骸”
も捨ててきた。                                 
   (註)レイというとハワイなどの大きなものを想像しがちだが、花は小さく、長めの首飾り程度。


―交  通―

 本節は、フィリピン国内の交通事情ということではなく、私たち第3班の移動手段のこと
である。まず、フィリピン慰霊巡拝団の日程表を見て分かるとおり、「成田−マニラ」
往復の航空機のほか、1月25日の「マニラ−コレヒドール島」往復のフェリー以外は大型
の貸切バスによる移動である。このバスは、マニラのニノイ・アキノ国際空港に到着して、
そこを出るときから慰霊巡拝の旅が終わって帰国の途に着くときまで、運転手とともに変わ
らなかった。朝の出発は早いときは7時、遅くとも8時までにはホテルを出発したのだが、
毎朝遅れることなくホテルの前に迎えに来た。ホテル帰着は午後8時頃になることが多かっ
た。我々がバスを降りるのは“現地慰霊”と“合同追悼式”の場所だけで、あとは途中のト
イレタイムの時だけである。トイレは一度、道に迷って病院に立ち寄ったことがあるが、そ
れ以外はガソリンスタンドかコンビニ、スーパーマーケットで貸してもらうのである。この
ようなことから、フィリピンの一般の人々と接する機会はほとんどなく、人々の生活の様子
などもバスの窓越しに垣間見たものと、現地ガイドがバスの中で話してくれたことだけであ
る。                                      
 添乗員のNさんが、第3班の毎日の走行距離を教えてくれたが、それを全部足すと975
km(註)になった。これにはマニラ到着の日と出発の日の分とコレヒドール島内での移動距
離を含んでいないので、その分を含めると1000kmを超えていたであろう。    
 そうそう、この“バス旅行”で一ヵ所だけボソボソ地区に建つ慰霊碑に着く直前、バスが
通れない狭い数百メートルの山道をトライシクル〔バイクを改造したサイドカー〕に乗った
ことも記しておこう。団長は「ホントは、皆さんのお父さんやお兄さんが炎天下を歩いたこ
とを追体験していただきたい所です」と言っていたが、年寄り集団にコトがあっては大変な
のでトライシクルに“乗せて”くれた。運転手のほかにサイドカーに二人、運転手の後ろに
一人、8台に分乗した。「トラブルのもとになるので運転手に話しかけたり周りの子ども達
に施したりしないでください」と団長のきついお達しがあった。交渉は全部現地ガイドに任
せていて、それでも料金のことで何か揉め事があったらしい。とかく“裕福な”日本人観光
客がチップを“弾んだり”施しをするのだそうで、そのような“施し”はトラブルの元なの
だということだ。スーパーマーケットに寄ったときに350mlの缶ビールが日本円で60
〜100円ほどの値であるのを見ると、日本人の金銭感覚で接することは良くないことはう
なづける。                                   
   (註):この距離は計画の段階の予定の数値なのか、バスのメーターの“読み”なのかは聞き漏らした。
      コレヒドール島は片道40kmなので、その日の分が80kmということだったので975km
       という数値は“予定の”距離だったのかもしれない。それならば、道を間違えたりしているので、
      かなり超過しているのではないか?                          



―参 加 者―

 第3班の参加者18名のうち男性は13名、残りの5名が女性である。名簿によると北か
ら北海道(1)、茨城(1)、埼玉(4)、千葉(1)、東京(2)、神奈川(2)、大阪
(3)、山口(1)、大分(1)、鹿児島(2)となっていて、地域に偏りがあるようにも
見えるが、私のように茨城県から来たけれど出身は岩手県であるというように、戦没者の出
身地域とは一致していないことは明らかである。他にも東京の一人の方は宮城であるし、大
阪府の一人は出身は千葉県と仰っていた。                     
 この巡拝団は少なくとも班ごとの自己紹介等があるかと思ったりしていたけれど、そうい
う機会を設けることはなく、相部屋同士で挨拶を交わしただけである。従って、名簿による
氏名と出身都道府県名のみで、どこで何をしていた人なのかお互いに判らなかった。どこか
に移動するときに全員そろっているか名前を呼んで点呼をとるだけである。それが現地慰霊
を行い、一緒に食事をする回数を重ねるにつれて、少しずつ打ち解けるようになってきた。
 参加者名簿に住所が書かれていないのは、個人情報保護法があるからである。旅が半ばを
過ぎたころか、大阪から来られたIさんが「縁あって同じ目的で一緒に旅をした皆さんの住
所録」を作成することを提案された。私は電話番号は空欄にしてメールアドレスを書いた。
全員が書いたものを、ホテルのフロントに頼んでコピーして実費(6ペソ)を払うことにな
った。団長は個人情報保護法の手前、名簿作りの提案・協力はされなかったが「提案者の労
に報いて、釣銭の煩わしさを避けるためにも10ペソ払うようにしたら良かったのに」と言
っていた。メールアドレスを書いた方は他にいなかったが、終わりの頃に名刺交換した方は
メールアドレスが記されていた。電話は何かしていても中断せざるを得ないけれど、メール
なら時を選ばず発信できるので、私はメールを重宝している。            
 男性14人のうちひとりだけ中国戦線に従軍した方がおられた。その方のお兄さんがフィ
リピンで戦死しているのだ。戦没者の“子”のうちで、私は父と別れたのは4歳のときなの
で父の記憶があるのだが、「父が亡くなったとき1歳だったので全く知らない」と仰ってい
た方もいる。名刺を下さったかたは、地域の経済誌を発行している方がいたし、NPOの花
と緑の救援隊という活動をなさっている方がいる。警視庁に勤めていたという方は、既に叙
勲〔瑞宝双光賞〕を受けておられる。皇太子のご成婚のとき警備を担当した記念にもらった
ネクタイピンをどこかに失くしてしまったとか。                  
 私の出身が岩手県と知ると、胆沢ダムが問題になっていたころなので、民主党の幹事長は
怪しからん! 岩手では皆、支持者ばっかりなのかと盛んに言われた。50年も前にワタシ
ャ岩手県を出ているんですがね。それが胆沢ダムのことだけでなく、皆さん私よりもずっと
ずっと“詳しい”のです。                            


―人々の生活―

 私は、この慰霊巡拝の旅に出る前に小学校以来の友人から「フィリピンの人々は親日的で
親切な人の印象でした」という経験談のメールを貰っていたし、佐藤君の「マニラには25
年ほど前に出張で行きました。貧富の差の激しいのには驚きました。今でもその状況は変わ
っていないでしょうネ。」という書き込み(1月20日)があるのも読んでいた。だが、前
述のとおり、フィリピンの人々と接する機会はほとんどなく、実生活がどうなのかは良く分
からない。ただ、どこに行っても大人も子供も人が多かった。そして、メトロ・マニラなど
は片側3車線くらいの広い道路に車がいっぱい走っているのだが、ちょっと停まっただけで
もすぐ物売りが寄ってくる。冷房が効いていて窓が閉まっている私たちのバスにも果物など
を差し出してくる。親日的で親切な人という点で言えば、大型バスが通り抜けられなくて百
メートルほどバックする必要があったとき、後ろの安全を確認しながら誘導してくれた人が
いた。                                     
 マニラに到着したその日、空港を出てリサール公園に向かう途中の広い道路の中央分離帯
の緑地に家族で寝そべっている光景を何回か目にした。現地ガイドによると、家を持たない
人たちが少しでも日陰を求めて緑地帯に寝ているのだということだった。また、これも現地
ガイドの話だが、フィリピンの小学校は子供が多いために2部制で午前に登校する子と午後
に登校する子がいるということだ。学校給食がないどころか、普通は昼は食べないのだとい
うことだった。                                 
 フィリピンは、1月でも最高気温が30℃を越す熱帯地方なので、家は窓なども開けっ放
しのことが多いようだ。マニラに着いた翌日から現地慰霊にあちこちと移動したわけだが、
 「その1」に書いたように最初の現地慰霊の対象は私の父であった。そこに行く途中のこと、
バスから道路沿いの家並みを見ていて大抵の家は敷居の内側や窓に金網を張るか鉄格子が付
いているのに気がついた。雑貨屋とか食品店と思しきところでは、その金網の内側に商品が
積み上げられていて、商品やお金のやり取りは小さな窓を通して行われているらしい。“学
校”と書いてある建物でも頑丈な鉄格子がはめられているのを見た。また、頑丈な塀で囲っ
た大邸宅では、建物自体の様子は分からないが、塀に忍び返しがついていた。     
 再び現地ガイドの話。フィリピンは貧富の差が大きいけれど貧しい人でもそれを不幸とは
思っていない。富裕層はスペイン系で大地主である。日本が今日のような繁栄する国になっ
 たのは“農地解放”がうまくいったからだと思う、と言っていた。フィリピンでもコラソン・
アキノ大統領が“農地解放”を主張したけれど、「まずは自分の土地を解放しなさい」と反
論されてそれができなかったために失敗したというのだ。              


―ホ テ ル―

 第3班が宿泊したのは、これまで述べてきた通りマニラに7泊、クラークに1泊である。
そこで、大きなスーツケースを持ち歩かずに済んだのは大助かりであった。クラークに泊ま
るときもマニラのホテルに交渉して置いていくことができたのである。ただし、結団式のと
きに配布された透明なビニール袋――これはパスポートなどを入れる貴重品袋――だけは、
ウェストポーチに入れていつでも持ち歩くようにしていた。             
 マニラのトレーダーズホテル・マニラはメインストリートに面した場所にあり、マニラ湾
が良く見えるホテルだった。マニラ湾に沈む夕日の素晴らしさを何かで読んだことがあるの
で、私はずっと以前から父も見たであろうこのマニラ湾に沈む夕日を見たいものだと思って
いた。しかし、残念ながら私の部屋からは陽が沈む方向は見えなかった。       
 クラークのホリデイ・インの方は、元の米軍基地のあった一角にあって“基地”全体がフ
ェンスに囲まれており、バスは警備員のいるゲートを通ってホテルに横付けされた。どちら
 のホテルも中に入る前に麻薬犬が鼻を利かせており、玄関には金属探知機が備えられていた。
金属探知機は大きな施設には大抵備えられていた。一度、トイレを借りるために“マニラホ
テル”〔ここには昔、日本軍や米軍の司令部があった〕に入るとき、金属探知機が反応して
時計をはずして再度チェックを受けたこともあった。                
 日本を発つ前、テニス仲間にフィリピンに行くため暫く休むと言ったら、即座に「荷物な
ど預かって来ないで!」と冗談を飛ばされたのだが、なるほど空港だけでなく麻薬犬がどこ
にでもいるということは、それだけ危険が身近にせまっているのかと思った。クラークは、
ホテルの周りは暗く「日本人は金持ちだと思われています。皆さんがここに入ったことも見
られています。外には拳銃を持った人もいると思ってください。大使館でも、最近日本人が
殺されたと言ってました」と団長が注意を促した。「身包みはがされても、抵抗しなければ
殺されなかったのでしょうがネ」という具合。マニラなら夜でも賑わっているみたいだが、
クラークは人影もまばらなようで、多分、誰も外に出なかったと思う。団長は米軍基地があ
った頃、すぐ近くの施設に泊まったことがあったそうだが、警備が厳しかっただけにもっと
安全だったらしい。                               

 “旅のしおり”には、持ち物としてパジャマを用意するように書いてあるし、日本のホテ
ルのようにバスルームにシャンプーとかリンスが備えられているとはかぎりませんと書いて
あった。そのつもりで行ったら、トレイダーズホテル・マニラではバスローブがあるし、バ
スタオルやフェイスタオルがあり、シャンプー・リンスがあった。しかし、バスルームのシ
ャワーはホースではなく、浴槽の天井の直径15センチほどの部分から直接“降ってくる”
もので水を浴びるのではないかと驚いた。それも最初の日は十分な熱さのお湯が出てこなか
った。翌朝、Nさんを通してフロントにクレームをつけたら、ソーラーパネルの調子が悪か
ったというようなことだった。クラークから帰って泊まったときは、十分に熱いお湯が供給
された。何しろ、ガイドさん曰く。フィリピンは一年中暑いので、何で熱いお風呂に入りた
がるのか?というお国柄、なのだそうだ。クラークのホテルは、浴槽がなくシャワーだけだ
った。それは覚悟していたから良いけれど、シャワールーム兼トイレの引き戸がちょっとし
た振動でひとりでに開いてしまうのには閉口した。ベッドルームの方から丸見えなのだ。ト
イレットペーパーを丸めて引き戸の下に詰めて解決した。              


―食  事―

 慰霊巡拝団の食事は、成田のホテルの朝食からマニラからの飛行機の中の機内食〔昼食〕
まで、全て経費の中に含まれている。毎日の朝食はバイキング形式であり、昼食は移動途中
にレストランに入ったり、予めバスに積み込んだ幕の内弁当だったりであった。弁当のとき
はバスの中での食事だが、ボトル入りのお茶も配られたし全く外国で食事している気分では
なかった。フィリピンは、米は一年中つくられているということだが、弁当のご飯は日本米
のようだし鮭の切り身とか焼海苔、フライ、野菜サラダ、梅干等々。日本のコンビニ弁当よ
り豪華なものを当然のように食したけれど、どのようにして調達したものなのだろうか。
 弁当以外の昼食は、車が混んで予約したレストランにたどりつけずにショッピングモール
の中のレストランに変更したときと、コレヒドール島の中のレストラン。そして、最終日の
空港へ着く前のレストランでの早昼。ショッピングモールでは、サンドイッチと大皿の料理
を何人かで取り分けた。コレヒドールではバイキング、最後の日の早昼は豪華な中華料理で
あった。11時頃の中華料理は半分も食べきれず、次の料理をもってくるとテーブルに載ら
 ないので、前の残りはウェーターが厨房に持ち去った。「従業員の昼飯になるんだろうなぁ」
といじましいことを考えた。                           
 夕食は、団員全員のマニラのホテルでの会食のときはバイキング。クラークのホテルでは
“定食”というのか、ウェイターがシーフードの皿を運んできたように思う。そのほかは、
ホテルに戻るときにレストランに寄るか、ホテルからバスで出かけるかして、韓国料理や中
華料理・和食・シーフードなど、その日によって違うものを味わった。どこのレストランに
 入るときも出るときも、手に馬の彫り物のようなものを持った“物売り”が「サンゼンエン」
などと言いながら寄ってきた。                          
 朝食バイキングにしても、昼の幕の内弁当にしても、夕食のレストランにしても、父は食
べるものもなく亡くなったのだろうなと後ろめたい気がした。母は、「父さんは食料のない
方に逃げたらしい」と言っていた。実際はどうだったのだろう。現地ガイドはバスの中で、
「フィリピンの野菜作りは日本人に教わったのです」と言っていた。         


―車窓の風景―

 フィリピンの気候は大まかに言って雨期と乾期に分かれるということである。1月は乾期
ということになるけれど、全く雨が降らないということでもない。最高気温は連日30℃を
超えていた。移動に使った大型バスは冷房が利いており、外の暑さを実感することはなかっ
た。というよりも、日本ならこれだけの温度差があると冷房の利いたバスから降りたらゲン
ナリするところだが、日差しの強さは感じるものの蒸し暑いということはなかった。  
 人々の交通手段は、近距離ならジープニーというジープを改造した車であり、遠距離なら
路線バスということのようだ。ジープニーは冷房はなく窓が開け放たれており暑いだろうな
ぁと思って、冷房の利いたこちら側からみると何か申し訳ない気持ちになった。だが、案外
これは誤解だったのかもしれない。ジープニーは窓が開け放たれているというよりは、元々
ガラスがないものなのかもしれない。日差しを避けさえすれば、屋根があるジープニーは風
も通って涼しいのかもしれない。コレヒドール島に行ったとき、外はカンカン照りの強い日
差しだったが、レストランのバルコニーは風が通って爽やかであった。        

 メトロマニラでは、ジープニーやトラックがいっぱい走っていた。ジープニーはどこでも
止ってくれる庶民の足ということで、どの車も人がいっぱい乗っている。トラックは荷物を
運搬しているのは勿論であるが、運転席の屋根の上に人が何人も乗っている。交通法規がど
うなっているのかは分からないが、日本ならとても考えられない光景である。     
 高速道路にはいるとき、脇のトラックに目をやると“この車は停車時はエンジンを停止し
てエコ対策に協力”というようなことが書かれていた。「ヘェー、フィリピンでもそうなの
か」と一瞬思ったけれど、日本の中古車ということに思いが至り、ひとり苦笑した。同じと
きに「福山通運がここまで来てる!」とも思った。まわりにフィリピンの人の人影がなけれ
 ば外国にいる実感がわかない、それほど日本の中古車が走っている。ガイドさんがいうには、
フィリピンではエンジンがかかるかぎり車を使い続けるのだということだった。排ガス規制
などないのだろうと思った。それよりも車検制度がないに違いない。         

 最初にマニラの空港から出て街中にはいったときに外を眺めていたら、人の背丈ほどの囲
いの中に男性が入るのが目に入った。その囲いは膝丈くらいまでは下が空いていた。男性ひ
とり用の立ってするための公衆トイレであった。どうやら中には朝顔は咲いていないらしか
った。その後、街に出たのはレストランに行くときだけだったので、その“囲い”にお目に
かかることはなかったのだが、フィリピンの“トイレ事情”には本当に参った! これにつ
いては節を改める。                               
 メトロマニラを出て“田舎”の方へ行くと、行く方向によって車窓の景色は違っていたよ
に思う。70年近く前の景色とは全く違っているのであろうが、椰子やバナナが生い茂って
いる景色を見ると、父はこういうところに隠れたのであろうかと思い、田植えをしている水
 田地帯を見ると、こういう身を隠すところがない場所にはいなかったのだろうな、と思った。
私たちが大型バスで通った道は、ほとんどがコンクリートの舗装道路であった。一度、カー
ブのところで右側の車線(註)の舗装が途切れているところに出くわした。小さい車は反対
車線を通っていくのだが、大型バスが通るには反対車線の向こうは斜面となっている上、行
き止まりになっていたらバックしようにもできそうもない場所だった。運転手が降りて先方
を確認してきた。結局、走行車線側は数百メートル舗装工事中だったのだ。その砂利道をそ
ろりそろりと進んで舗装したところにでることができた。そのとき道路沿いに10〜20メ
ートル間隔で街灯があるのに気がついた。白熱灯ではない。日本で見かけるU字形の蛍光灯
が上向きについていて笠をかぶっていた。白昼なのに点灯していた。その街灯は道路の両側
にあったのだろうか。“電柱”の高さはバスの中に居る人の目の高さなのだから、2メート
ル位の高さだったのだ。後で、ホテルで朝配られる新聞で電力不足が報じられていたのを見
て、昼も点灯している街灯、あれでいいのかなと思った。              
(註)フィリピンの車は右通行である。このためバスの出入り口は運転席の右にあり、
     つい左側から乗ろうとして何度も間違った。
               


―トイレ事情―

 日本では長距離ドライブをするときでも、ドライブインとかガソリンスタンド・道の駅な
どで快適に用を足すことができる。フィリピンでは道の駅などはなく、大概ガソリンスタン
ドで借りるかスーパーマーケットを見つけて用を足すことになる。ただし、「○○を過ぎた
 らガソリンスタンドはありません」とか「(探すから)催してきたら早めに言ってください」
という注意を何度も受けた。日本だってガソリンスタンドのトイレなど何人も入れないのか
もしれないが、フィリピンではそのような問題ではなく、“詰まって流れない”ことが多い
のだ。そのために“溢れる”恐れが生じてくる。また、数が少なくて男性用も女性に開放し
て、男性は陰の方の“従業員用?”のところに案内されたトイレは屋根と床はあるけれど朝
顔はなく、壁を崩して穴をあけてあるだけである。要するに外に垂れ流しである。下水道が
完備しているわけでもない。ホテルの排水にしても浄化槽があるようでもなく、海や川に直
接流しているということだった。                         

 モンタルバン河のダムの上流で現地慰霊を行ったときのこと、ここには政府の観光案内所
があって、そこから15分ほど歩くのだが、現地に向かう前にトイレタイムとなった。例に
よって観光案内所のトイレを借りることにしたけれど、数も少ないので「男性はこの辺一帯
がトイレと思ってください」という団長の一言で窪地や樹の陰で用を足すはめになった。周
囲の人からは丸見えなので落ち着かないことおびただしい。             
 また、何という場所だったかは覚えていないが、高速道路から一般道に出るときに交通渋
滞に巻き込まれてバスが立ち往生したことがあった。渋滞の原因は交通事故で車が横転して
いるのだという。日没から1時間くらい経っていたか男性陣は夜陰に乗じて動かないバスを
降りて大急ぎで用を足した。女性陣は・・・? 幸いに、我慢の限界に達する前に渋滞が解
消され、予定の場所にたどり着いて用を足すことができた。わずか2〜300mの距離を1
時間もかかって一時はどうなるかと思ったものだ。                 


―スーパーマーケット―

 スーパーマーケットもトイレを借りるのに都合の良い場所である。ただし、ここではトイ
レの話ではなくマーケット本来の買い物の話である。勿論、急遽トイレタイムで入ったマー
ケットなのだがその時は時間的に余裕があって40分ほどの休憩時間をとることになった。
 間口が広いというか、レジがずらりと20くらい並んでいたように思う。売り場に入ると
ころには拳銃を携帯した警備員がいて、班員の中にはカメラをむき出しで持っていたらバッ
 グに仕舞うように注意された方がいた。中に入ると、天井近くまで棚に商品が積まれていた。
私は、ホテルやレストランで飲むビール(銘柄:サンミゲール)が高いので、脚立に乗って
商品を整理している従業員にビールのある場所を聞いた。マニラ・トレイダーズホテルでは
350mlで200ペソするのだがマーケットの レシートを取り出してみると 29.50
ペソ(4本)、33ペソ(2本)、45ペソ(2本)の3種類を購入していた。国外に持ち
出せるのは5本までということなので、3本は滞在中にホテルの冷蔵庫で冷やして飲んだ。
同じサンミゲールでも値段の違う3種類があり、一緒に飲み比べた訳ではないが値段の差は
わからなかった。レジで支払いを済ませて出口のほうへ向かうと、待ち伏せしていたように
別の係員に呼び止められレシートの提示を求められた。そして商品とレシートの照合をする
のには驚いた。他の班員もチェックを受けたのかどうかは聞かなかったし、現地の人がチェ
ックを受けていたかは定かではない。                       


  ―戦  跡―

 フィリピン慰霊巡拝の旅は、各戦没者の没した地点での現地慰霊と参加者全員による合同
追悼式を無事終えることが使命である。現地慰霊は、私の父の場合「マニラ北方山中にて戦
 死」とあるだけで具体的な地名が書かれていないということは“マニラ近郊の小高いところ”
と考えられる、ということでドハットという地区の小山の望める原っぱのようなところで
行われた。他の人たちもピナツボ山が望める川原とか、マニラの街を見下ろす場所、モンタ
ルバン河、ミンドロ島が望める海辺、マニラの司令部跡の建物の前、というようにそれぞれ
の縁(ゆかり)の場所で現地慰霊が行われた。その他に同じ縁の場所でも戦友会などが建て
た慰霊碑や観音像がある場所で行った現地慰霊が四ヵ所ある。その一つがコレヒドール島で
の現地慰霊であった。                              
 コレヒドール島は、マニラ湾の入り口にある要衝で激戦地だったところとして知られてい
る。ここはマニラから40キロの距離にあり高速艇で1時間ほどかかる。船は朝8時出発の
1便のみで、帰りは14時乗船、14時30分出航であった。乗船すると、船室の前方の壁
に薄型テレビがあってコレヒドール島での戦闘の模様やマッカーサーのことなどの映像が流
された。前方10列目くらいまでは教師に引率された小学生のグループが熱心に見ていた。
私は船のエンジン音のせいもあってよく聞こえないし、目もかすんで映像もよく見えなかっ
たが、日本人にはあまり嬉しくない映像であったように思う。            
 コレヒドール島に着くと、屋根つきのベンチという風情の観光バスに乗り込んだ。この日
のガイドはかなり年配の男性で、日当が安いと嘆いていた。「みーなさん、ワタシの日当、
いーくらだと思いまーすか? 500ペソです。日本人ボスがあげてくーれないのです」と
言っていた。そうか、日本人が経営しているのかと私は思った。普通の収入水準や物価が判
らないけれど、500ペソといったら約千円。毎日仕事があるわけでもないだろうから、や
はり安いのだろうなぁ。こういうのを聞くとホテルで200ペソのビールを飲むのも申し訳
ない気分だ。コレヒドールのレストランで飲んだビールは50ペソだったか?     

 コレヒドール島では慰霊碑や観音像がいくつか目に入った。そのうちの公的な機関?が建
てた慰霊碑の前で現地慰霊が行われた。この日の現地慰霊は一回だけなので、それが終わる
と戦跡めぐりであった。三階建ての長さ50mくらいのビルが数棟、骨組みだけになってい
たし、弾薬庫だったという建物には無数の弾痕がついていた。            
 BATTERY という語は砲台を意味するのだが、BATTERY WAY というのは何と訳したらいいの
だろう? 砲台のあった場所には長さ20mくらいの砲身が横たわっていた。こんなものを
据えつけたり操作するには大きなクレーンでもなければできなかっただろうが、こういうも
のを揚陸する機動力のある米軍と戦ったのかと思うと暗澹たる思いで全く無謀な戦争に腹立
たしくなるとともに涙がこぼれた。                        

 コレヒドール島の観光スポットの一つにマリンタトンネルがある。このトンネルはアメリ
カ合衆国がその統治時代に1922年から10年かかって造ったもので司令部や1000床
の病院などがあり、防空壕・貯蔵庫としても使われたものらしい。メインは東西に250m
の長さで、枝道となる坑道もある。ここは西から入って東に下り坂になっていたようだ。私
は、バスを降りるときにPCのはいったザックを躊躇しながらも席に置いてきたのだが、ト
ンネルに入るときに、団長が「扉が閉まったら後に戻れませんよ。荷物は良いですか?」と
これまで何度も注意してきたことを駄目押しのようにもう一度繰り返した。その時は5〜6
 m中に入っていたのでもう遅い。扉が閉まると中は真っ暗。ガイドの声を頼りに歩きだした。
ところどころで明かりがついて説明があるのだが、荷物のことが気になって気もそぞろであ
った。私はディジカメの測距ボタンを押してわずかな明かりでファインダーを覗くのだが、
ピントも合せられなかった。そのうちに真ん中辺と思われるところでドカーンと轟音がとど
ろいた。爆撃音(擬音)である。その後、スポットライトが翩翻と翻るフィリピン国旗を浮
かび上がらせた。トンネルの中で送風機を使っての演出である。因みに、フィリピン国旗の
図柄は上下が対称的で、上下の色が違っている。平和なときは青を上にし、戦争状態のとき
には赤を上にするのだということだ。だが、このマリンタトンネルの中で翻った旗の色がど
うなっていたかは覚えていない。生憎と撮った写真もきれいに広がった状態で写ってはいな
かった。平和な今の世の中でも、戦闘状態を再現したのだから上が赤だったのだろうか。
 バスに戻ると荷物は無事だった。誰かも「荷物を置いていったので、気になって何を言っ
てるのか分からなかった」と仰った。みんな一般大衆が船賃をかけて行くような場所ではな
い、と思って無用心にも気を許してしまったのだ。何事もなかったから良いけれど、やはり
荷物は身に着けておくべきであった。                       

 このトンネルは、米軍が再上陸してきたときに日本軍が爆破したということだが、詳細は
不明である。                                  

  ―団長のこと―

 第3班の班長は、団長のY氏で厚生労働省社会・援護局援護企画課外事室所属の慰霊巡拝
事業全体の企画・立案・実施についての専門官ということだ。何年か前には外務省に出向し
てモスクワの日本大使館一等書記官を務めたこともあるキャリア官僚である。もうすぐ52
 歳になるということなのだが、この慰霊巡拝のことだけでなく政治向きのことも実に詳しい。
第3班はほとんどバスに乗って移動したのだが、目的地に着くまでの間いろいろと団長がレ
クチャーしてくれた。フィリピンの地理も運転手よりも詳しいみたいだった。厚労省にはい
って間もなくは、半年間に大学の4年分の勉強をしたということだ。遺骨収集にも何度も携
わったということだ。ご自身のおばあちゃんの弟もフィリピンで戦死しており、郷里に帰る
と、おばあちゃんから「お前はひと様の遺骨ばっかり持って帰るけれど、いつになったらお
じさんのお骨を持ってきてくれるのかね」と言われるのだそうだ。現在、一年のうち日本に
居るのは三分の一だけで、国内にいても首相や国会議員の求める資料作りで帰るのは午前様
の状態らしい。「小泉首相にも仕えました」ということだが政権交代による“事業仕分け”
については、「慰霊巡拝団で何かコトが起きて世の耳目を引いたりしたら悪影響が出ること
もあり得る」ので、現地慰霊と合同追悼式を無事終える必要がある。         

 団長のレクチャーのうち記憶にあるものを書き出してみると、@フィリピンにおける日本
軍は“現地調達”が原則だったが、サトウキビや椰子など換金作物しかなかったので食料不
足に陥った。A米軍の動向などについて情報不足だった。〔以下、誤引用を恐れるので項目
のみ〕Bソ連参戦と三国同盟の関係。C北方領土の4島返還か2島返還か、等々。   

  ―写  真 (1)―

 これまでに述べたように、この慰霊巡拝の旅に際して私はノートパソコンを持ち歩いて、
ディジカメで撮った写真を毎日PCに取り込んで整理した。PCには予め日にちごとのフォ
ルダーをつくっておき、ホテルに帰ってPCにダウンロードするときにその日のフォルダに
取り込むことにした。ファイル名は、「撮影年月日+画像番号」となる設定にしておいた。
こうして撮った写真は約600枚になった。帰国してから写真を整理していては、とても面
倒な作業になったはずである。                          
 同じ班の皆さんには、プリントして配る煩瑣なことは考えず、CDに焼いてお送りした。
PCをお持ちならばすぐ見られるし、そうでなければ写真屋にもっていって必要な写真を選
んでプリントしてもらうようにしたのだ。班の方のなかには、ご自分のディジカメの故障や
メモリーの容量不足で撮れなかった方もおられ、CDを送って喜んでもらえたようである。
警視庁におられた方は、メモリー不足を団長に相談したら日本旅行にかけあって1GBのメ
モリーを手に入れてもらったようだ。だが、“撮ったはずの写真が三分の一くらいしかなく
てガッカリした”というようなメールが届いた。                  
 日本旅行の“旅のしおり”には、「慰霊巡拝では、ご自分でお考え以上に写真を撮ること
が多くなります。フィルムは出来るだけたくさんお持ち下さい。現地での購入には限りがあ
ります」と書かれていた。これを目にしたとき、“今時銀塩フィルムでもあるまいに、年寄
り集団だからこう書いているのだろうか”と思ったものだ。書くなら、「カメラの操作に慣
れておきましょう。ディジカメの場合、カメラのメモリーの容量が十分かどうかディジカメ
の購入店や写真屋さんで確認して、不足ならば購入しておきましょう。予備の電池を多めに
持ちましょう」というように参加者の身になって書く配慮がほしいものだ。      

 PCは写真の整理だけではなく、本来のホームページの更新やメール通信にも重宝した。
マニラに到着したその日には、盛岡の兄に伝えてもらうように姪(兄の娘)にメールで「マ
ニラの空港に着陸するときに“来たよう”と思ったら涙がこぼれてしまいました」と書いた
ら、姪から「父も涙ぐんでいました」と返信が来た。翌日の“現地慰霊”で撮った写真(私
が拝礼している場面)もすぐ添付ファイルで送ったら、祭壇に飾った父母の写真をみて「母
さんも連れて行ったのか」と感無量な様子だったらしい。              

―写  真 (2)―

  カリラヤにある日本政府の建てた慰霊碑の前での合同追悼式の様子は「その1」で述べた。
式が終わって厚労省の職員が班毎の集合写真を撮った。それには添乗員や現地ガイドは入っ
ていない。第3班の撮影のときに、私は添乗員か誰かに私のカメラを預けて撮って貰おうと
 したら、“正規のカメラマン”に制止されてしまった。後日、厚労省から“正規の記念写真”
が送られてきた。その写真は、色調がひどく暗いものであった。私は、それをスキャナーで
取り込んで“補正”してみたら、かなり自然の色調に近くなった。ところが何か縞模様が現
 れていた。はじめは、スキャナーの台に置いたことによってモワレ縞が現れたのかと思った。
元の写真を見てみると、物差しの目盛りのようなものの痕が付いていて、それが原因なのだ
とわかった。写真用紙を網目のようなものの上に置いて押し付けたような痕である。他の人
に届いたものはどうだったのかは知る由もない。折角の記念写真なのだから、制止するくら
いなら玄人並みの写真にして欲しいものだ。                    

―健康管理―

 私は“成人病検査”と言われた頃から30年以上高血圧の治療を受け、自宅でも毎日3回
血圧を測定し、降圧剤も服用している。そのため、この慰霊巡拝の旅にも血圧計を携行し、
うちに居るときと同じように毎日3回血圧を測り続けた。その結果は、とにかく緊張の連続
で、いつも血圧は高めの値を示した。                       

 フィリピンでは、血圧を管理していても慣れない食事やら衛生状態の違いやら様々なこと
が原因となって体調をくずすことが心配された。私は生水を全く口にせず、歯を磨くときで
さえもミネラルウォータを使うようにしたためか、体調を崩すこともなく帰国することがで
きた。しかし、旅も後半の頃にはバスの座席に横になっていた方もいたし、合同追悼式に参
加できずホテルで待機していた方もいた。厚労省の“しおり”には整腸剤・胃腸薬・風邪薬
などの「携行医薬品は、緊急用に最小限のものを派遣団として用意して」いる旨、書かれて
いたのだが、団長は持病の薬との関連などから「薬はあげられません」と仰っていた。何年
か前に薬をあげて死亡寸前だったか死亡に至る事故だったかがあったらしい。いろいろ“対
策”をレクチャーしてくれて、「極端に言えば携行薬品は厚労省の職員用」ということだっ
た。それでも、整腸剤(ビオフェルミンなど)は副作用もないので体調の悪い人に団長はあ
げていた。これが意外と効くらしく、体調をくずした方も大体は回復していた。何度も慰霊
巡拝を指揮した経験から得た団長の生活の知恵ということらしい。          
 確かに、薬局に行けば“お薬手帳”を示したりして他の薬との飲み合わせなども管理する
 世の中なのだから、医師でもない厚労省の職員が投薬することができないのは明らかである。
それなら、厚労省の“しおり”にはっきりと「健康管理は自己責任」で「胃腸薬や風邪薬」
を渡すことは出来ない旨、書いておいたほうがいい。私など、“派遣団として用意する”と
書いてあるのを見て血圧の薬以外は持たなかったのだ。               

―買い物とお土産―

 慰霊巡拝の旅は“現地慰霊”を行い“合同追悼式”に参加して、無事帰国することが使命
なので、観光旅行とは違って“買い物の楽しみ”は最初から考えられないことであった。わ
ずかに“合同追悼式”の帰りに時間的に余裕があれば“みやげ物店”に寄ることが予定され
ていた。実際には、このほかにトイレタイムのガソリンスタンド併設のコンビニとかスーパ
ーマーケットで買い物をする機会はあった。“予定の”みやげ物店〔ジープニーショッピン
グセンターと日本語も書いてあった〕では、もともと買い物をする気もなかったので一通り
眺めた後は外に出て花の写真を撮っていた。私がフィリピン通貨を使って買い物をしたもの
といえば、前に述べたスーパーマーケットでのビールとミネラルウォーター(500ml・
10ペソ)とコンビニでのフィリピン地図・2部〔@169ペソ〕、次に述べるドライマン
 ゴー〔現地ガイド斡旋〕、帰国時の空港の免税店での手作りコースター4枚〔@80ペソ〕、
そして日々の夕食時のビール代だけであった。                   

 フィリピンのお土産には、日本では滅多に味わえない果物なら買ってもいいと思って、出
発前に日本旅行から届いた「おみやげ通販」カタログのマンゴーをみると、1月はちょうど
次の収穫の直前で扱っていないということだった。他に魅力的なものもなさそうだし、ぞう
み飴の製造元のご主人と同様にフィリピンの石を採取して、お土産にすることにした。父の
現地慰霊の場所ではそこまで思いが至らず、探し求めることもしなかった。それが、モンダ
 ルバン河に行ったときに川原の石をみて「コレだ!」と思って、ポケットに何個か忍ばせた。
他にはお土産無用と思っていたところ、慰霊巡拝の旅も三分の二くらいが過ぎた頃、現地ガ
イドが“ご希望ならば”ドライマンゴーを市場で仕入れてホテルに届けるがどうかという話
をした。100グラム入りが一袋120ペソ(約250円)だったと思う。考えてみたら、
帰国した後二月には母の三年忌で盛岡に行くことにしていたので、親戚に配るのに良いお土
産になると考えて20袋注文することにした。何しろ、初日に両替してもらった現地通貨が
半分以上残っており、再び日本円に交換するのはレートが悪いということだったし、面倒で
もあった。今、おみやげ通販のカタログをみると、同じものが6袋セットで4190円とな
っており、送料を別にしても一袋700円なのだ。荷物にはなったけれど、格安だったこと
になる。ドライマンゴーは、そのまま食べてもよし、ヨーグルトをかけて食べるのもおいし
い。                                      

  空港の免税店でコースターを買ったのは、少ないながらも残りのペソを使うためであった。
今、私の手元には50ペソの札が一枚と5ペソと1ペソの硬貨が各1枚残っている。コース
ターも5枚買うにはあと30ペソほど足りなかったために4枚にしたのだが、有り金見せて
値切り交渉をするべきであった。だが、このフィリピンの通貨をみる度にフィリピンの思い
出のよすがとなっている。あるいは、次にフィリピンに行くときに使えばいいさ、とフィリ
ピン再訪の原動力ともなりそうである。                      

―帰  国―

 “フィリピン慰霊巡拝の旅”の最終日、午前10時45分にトレイダーズホテル・マニラ
を出発し、11時には中華料理店で早昼を摂ったことは前に記した。他の班も相前後してこ
のレストランに到着した。ビールを注文している班もあったが、第3班は“飲まない”こと
を申し合わせた。旅の最後に羽目をはずしたりて“事故”を起こして団長の顔をつぶしては
いけないという“自己規制”だったかもしれない。                 
 昼食後、レストランを後にして空港に向かった。バスを降りたら驚いたことに出国ロビー
に入るための行列ができていた。現地ガイドは、「私たちは中に入れませんので、ここでお
別れです」と握手した。保安検査は出国審査の前だったのだろうか。ズボンのベルトをとり
靴も脱いで金属探知機を通らなければならないのには驚いた。ボディーチェックも形だけで
はなく、腹に巻いた財布も探られているみたいで気持ちよいものではなかった。    
 出国審査のときに、審査官にパスポートを見せて撥ねられたフィリピンの若者をみた。そ
の若者は再び列の後ろに並んだが“あれは一体なんだったのだろう?” 偽造パスポートな
ら何度並んだって同じことだろうに、それも同じ審査官の列なのだ。         

 飛行機に搭乗すると、他の班の年配の厚労省職員が隣の席に着いた。「(厚労省の)皆さ
んは年に何回位こういう(慰霊巡拝団を引率する)出張をなさるんですか?」と訊いてみた
ところ、その方は既に退職された方で“嘱託”ということで“たまに手伝う”程度らしかっ
た。退職しても“仕事”があるのは羨ましい。「(団長は)後輩です」ということだ。そう
いえば、第3班の女性職員も「担当課だけでは手が回らない」ようなことを言っていた。そ
して「硫黄島に行ったことはあります。だけど、国内ですから楽でした」ということも。そ
うか、硫黄島は東京都なのだ。                          

 成田到着は午後8時。無人運転の電車に乗って到着ロビーへ移動。続いて、【解団式】と
言っても、団長の「皆さんご苦労様でした」の一言の流れ解散で、入国審査を通ってスーツ
ケースを受け取ったら、それぞれの家路へと急いだ。私は、後泊のホリデイイン・東武成田
のお迎えバス乗り場へ。ホテルの快適なバス・トイレ・ベッドでのびのび過ごせるのは本当
にありがたいことだが、レストランの夕食は何を食べたのだろう。生ビールの900円は確
かだが、フィリピンのレストランのような食事をしたら万札でもわずかの釣しか戻ってこな
かったに違いない。                               

 翌日、ホテルのバスで成田空港に戻り、再び高速バスで日立に帰ってきた。最高気温が連
日30℃を越すフィリピンから比較的温暖な土地とはいえ真冬の日立に戻ってきて、数日風
邪気味の日々を過ごした。                            



                                書き始め:2010/03/03頃
                                完  了:2010/05/07
                                補  筆:2010/05/11

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