賀毘礼の高峰 奈良時代の初期、和銅6(713)年編纂され養老5(721))年に成立した,常陸国の地誌である『常陸国風土記』には、次のように記されている。 「東の大きな山を賀毘礼の高峰と謂ふ。すなわち天(あま)つ神在(い)ます。名を立速日男命(たちはやひおのみこと)と称す。 一(また)の名は速経和気命(はやふわけのみこと)なり。本(もと)天(あめ)より降(くだ)りて、すなわち松沢の松の樹の八俣(やまた)の上に坐(いま)しき」 また考古学的にもそれを裏付けるように縄文時代の祭祀遺跡が発掘されている。 賀毘礼の高峰は御岩山の古称で、かっては賀毘礼山、葦原山、天香久山とも呼ばれ、中世には神仏混淆の霊場となり、江戸時代に至り水戸藩の出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)として盛え、境内には21の神社、寺院があって大きな霊地を形成していた。 現在でも御岩山には御岩神社、賀毘礼神社、薩都神社、齋神社等があり、全山総祭神188柱に及び、県下最大、関東有数の霊場である。
御岩山の頂上付近は巨大な岩場で、賀毘礼の高峰と表示板がある場所からの眺望は樹木に囲まれて芳しくない 岩場は神体であり、東日本大震災以降頻発する余震で崩落の危険があるため、立ち入りは制限されている。 |