常澄    

 駅舎もなくホーム上に待合所があるだけである。駅前には商店もない。ただ東水戸駅と異なる のは駅前広場と広い駐車場があることだ。周辺には民間の駐車場もあり、通勤者がパークアンド ライド方式で使っていると思われる。ホームの周辺も穀倉地帯で田園が広がり、北に大きな建物 の存在がひときわ目立つ。県立産業短期大学、水戸産業技術学院専門学校、水戸高等特別支援 学校である。
  名所旧蹟案内板に稲荷神社、大串貝塚ふれあい公園、長福寺、東光寺がある。

稲荷神社
 常澄駅の南西に位置し、水戸市役所常澄庁舎(常澄出張所、常澄図書館)背後の森厳な樹林の 中にある。車がやっと通れる細い道に入って探したが分からず、常澄庁舎の女性職員に教えても らい常澄庁舎から徒歩で向かった。
 祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

 大同2(807)年大串の山海の地に創建したが、元和元(1681)年に遷座した。元禄16 (1703)年水戸藩3代藩主徳川綱條(つなえだ)の命により旧跡地である現在地に再び遷座 した。社殿は西向き、水戸城の守護神として造営され、次いで宝永3(1706)年に日月鉾 と四神の旗、宝永5(1708)年には神輿も藩主より進納されている。また大正時代に入ると 近隣21ヵ村の総鎮守として栄えた。

 日月鉾と神輿は水戸市の指定文化財、神輿は総漆塗りで葵の紋がある。 神社に伝わる散々楽(ささら)は国の選択無形文化財及び県の無形文化財で獅子頭に棒をつけて 操る「棒ささら」に特徴がある。

大 串 貝 塚 ふ れ あ い 公 園
 常澄駅の南、国道245号線が国道51号線に交わる南側の高台にある。縄文時代に形成された 大串貝塚周辺を整備してふれあい公園とした。園内のシンボル、巨人伝説にも登場する高さ15m の「ダイダラボウ」を中心に、大串貝塚、貝層断面観覧施設、縄文、弥生、古墳時代の住居を復元 した縄文ひろば、巨人足跡池、遊具を配置した「いこいの広場」イベント広場、おまつり広場、埋 蔵文化財センターなどがある。

大串貝塚(国指定史跡)
 奈良時代初期 和銅6(713)年に編纂され、養老5(721)年に成立した『常陸国風土記』 に記載された貝塚で、文献に記載された貝塚としては世界で最も古く、これにまつわる巨人伝説 と共に著名である。
 昭和初期の調査で縄文時代前期(約5000年以上前)に形成された貝塚であることが明らかに なった。出土遺物はヤマトシジミ、マシジミ、アサリ、カキ、アワビ、サザエなど貝殻、魚骨、獣骨、 石器、土器などである。
 大串貝塚は『常陸国風土記』那珂の郡(こほり)の中で次のように記述されている。
「平津の駅家(うまや)の西一二里(ひとさと、ふたさと)に岡あり。名を大櫛と曰(い)う。 上古(いにしえ)人あり。体極(からだきわ)めて長大(たけたか)く、身は丘壟(おか)の上に 居て、手に海浜の蜃(うむぎ)を摎(くじ)る。その食(くら)ひし貝、積聚(つも)りて岡となりき。 時の人、大朽(おおくち)の義(こころ)を取りて、今大櫛の岡と謂ふ。その践(ふ)みし 跡は、長さ四十余歩(よんじゅうあしあまり)、広さ廿余歩(にじゅうあしあまり)、尿の径 (わたり)廿余歩計り(にじゅうあしあまりばかり)」

ダイダラボウとは
 大自然の中で暮らした大昔の人々は狩猟、漁撈の恵みを与えてくれる海、山、川、沼などがど うしてできたか不思議に思い、そこに生まれたのが大男のダイダラボウ伝説であった。
 「その身体は極めて大きく、丘の上にいながらその手は海辺の貝をほじくっていた。その食べ た貝殻が積もり積もって丘となったていた」と伝えられているように貝塚の理解に大男を登場させ た。日本の神話には国土を造った神、国土に手を加えた神が存在するが、地域社会である小さな 集団では、人間の力を超える自然現象の表現を巨人伝説として表現したものと考えられる。
 巨人の名称は関東から近畿地方の東部までがダイダラ坊(大太良坊)やダイダラボッチ(大太 良法師)西日本はオオヒト(大人)東北地方はオオヒトや八(は)の太良、手長足長である。

長福寺
 大串貝塚ふれあい公園の中のある水戸市埋蔵文化財センターの向かい側にある。公園の駐車場に 車を置いて徒歩で向かった。
 塩崎山 密嚴院 長福寺 宗派:天台宗 本尊:阿弥陀如来
平安時代の貞観年間(857〜877)慈覚大師円仁(794〜8649)によって創建されたが その後空庵となり、康永3(1344)年、栄尊法印により中興開山となる。元禄12(1699) 年水戸藩主徳川光圀の思し召しをもって塩ヶ崎の現在地に移った。天保10(1839)年火災に より本堂、庫裏、古記録等が焼失したが、天保12(1841)年再建して現在に至る。

 水戸城下天台宗10ヵ寺の一つで大寺に数えられた名刹である。 幕末1864(元治元)年水戸藩内に於ける天狗、諸生の抗争(元治甲子の乱)発生時、那珂湊 の湊御殿に近いここ長福寺に、幕府追討軍の本営が置かれたことでも知られている。境内には追 討軍隊士4名の墓がある。

東光寺
 長福寺より更に西側に位置する。県道40号線で約1.5km走り、案内板に従い田圃の中の細い 道を右折して間もなく着く。
 醫王山 東光寺 宗派:天台宗 本尊:薬師如来
薬師堂は禅宗様式を基本とし享保5(1720)年の墨書がある。
 堂内の厨子は天正7(1579)年に再製されたものである。木造の薬師如来坐像は桧材の一木 割り剥ぎづくりで、室町時代前期の作と考えられておりいずれも水戸市文化財である。

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