ハンデのある人は苦労する。勿論エレベーター、エスカレーターはないようだ。普通の人でも 60余段の階段を上ると少々息がはずむ。しかしホームからの眺望は抜群である。 市街地の街並みや南側の北浦が良く見える。湖面が風に揺れるのが伝わってくるようだ。 名所旧跡案内板に大竹海岸、無量寿寺、十一面観音菩薩、鉾神社、北浦、烟田(かまた)城跡がある。
大竹海岸
大竹海岸は白浜が続き、雄大な鹿島灘を眺めながら海のレジャーが楽しめる海水浴場である。
東日本大震災以降海水浴客が激減していたが、青い海と白い砂浜、ライフセーバーが海の安全を監視し、
子ども連れでも安心して遊泳を楽しめる海水浴場として人気は回復傾向にあった。
2015年夏は猛暑で好天に恵まれ人出は好調だったが、8月5日沿岸にサメが確認され一時遊泳
禁止となってしまった。
海水浴場側では防護網の設置を試みたものの、高波の影響で網が張れなかったため遊泳禁止が続き
尻すぼみとなってしまい、関係者は大いに悔んだようだった。
海水浴場の駐車場は広いが海水浴場に公共の更衣室やトイレがないため、海の家にお世話にならなければ
ならないのは不便である。海水浴場の南隣りには鹿島灘海浜公園があり双方で大自然を楽しむことができる。
無量寿寺
鉾田市街の北西7.0km、県道18号線沿いにある。親鸞聖人ゆかりの寺として知られている。
光明山 無碍光院 無量寿寺(むけこういん むりょうじゅじ)
宗派;浄土宗本願寺派 本尊;阿弥陀如来
大同元(806)年平城天皇の勅願所として創建され、親鸞が承久3(1221)年から3年間在住して、
自ら阿弥陀仏を刻んで本尊とし浄土真宗の布教を行なった。
境内には樹齢7〜800年を越える菩提樹、かや、けやき、杉、槇などの大木が茂っている。親鸞お手植
の菩提樹、かやの木が現在も残っている。
親鸞が3年間の布教を終えこの地を去るとき、門下二十四輩の第3番順信房(じゅんしんぼう)に
託した。順信房は無量寿寺を拠点として鹿島、行方地方に広く布教を行った。
親鸞聖人二十四輩とは
浄土真宗の開祖親鸞は承元元(1207)年越後に流刑され、建歴元(1211)年赦免された。
赦免後の健保2(1214)年関東に移住し、以後20年間関東で布教に努めた。二十四輩とは親鸞の
正しい教えを継ぐ直弟子24人を数多い門弟から選びその24人が開基した寺院のことをいう。
塔ヶ崎十一面観世音菩薩
鉾田市街の地理に不案内で鉾神社のお詣を済ませ塔ヶ崎946を頼りに塔ヶ崎地区を走っていたら、
案内標識が目にとまりスムースに辿り着けた。
塔明山 観音寺 本尊;十一面観世音菩薩
安産、子育ての観音様として広く知られ、約300年前に建立された。毎年1月と8月の21日に大縁日
があり、観音様の慈愛と加護を求め多くの参拝客で賑わう。参道には沢山の露店が出てはずみをつける。
鉾神社
鉾田の市街地にある。鉾田川の西側の川沿いから狭い道を入ると突き辺りが鉾神社の境内だった。
祭神;大己貴命(おおなむちのみこと) 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
天正4(1576)年鉾田城主田山東市正が創建したが、天正14(1586)年鹿島氏の内紛で城を
奪われた。天正19(1591)年佐竹義宣の鉾田攻略で当時の鉾田を治めていた鹿島氏、烟田氏が滅亡
したため、神社も荒廃した。その後江戸時代の寛文4(1664)年に再建され弘化3(1846)年に
改修されている。神社の祭礼は約400年の歴史があり、鉾田の夏祭りとして神輿や山車が練り歩く。
北浦
周囲約64kmの北浦は東は鹿島灘、西には西浦(霞ヶ浦)を控え、湖畔は鉾田市、鹿嶋市、潮来市、
行方市に囲まれ、北浦大橋、鹿行大橋により東西が結ばれている。面積34平方km、
最大水深7m、コイ、フナ、ワカサギなどの釣り場としても親しまれている。
漁業も盛んでワカサギ、シラウオ、フナの加工品である煮干し、甘露煮、焼き物などの人気が高い。
近年アメリカナマズ、ブルーギル、ブラックバスなど外来種が生育して問題が多い。
烟田城跡(かまたじょうあと)
新鉾田駅から北西に約1.5km、烟田集落の上部台地に位置する。この地で烟田氏は約350年間
北部の雄として君臨していたが、天正19(1591)年18代城主烟田通幹が佐竹氏によって太田
(現、常陸太田市)で誘殺され、城は佐竹の軍勢に攻められて落城しそのまま廃城となった。
天正20(1592)年城の東部に西光院が移り、江戸時代には旗本渡辺氏が氷川神社を勧請した。
その後明治22(1889)年には新宮尋常小学校が建設された。
現在は西光院、氷川神社、新宮小学校になっており、烟田城時代の本丸跡は氷川神社の裏と横に僅かな
土塁と堀跡を残すのみで、大きく変貌してしまったため昔の姿を偲ぶことはできない。