大雄院寺 大煙突
大雄院のお寺にある木造釈迦如来三尊像は県指定の文化財となっている。釈迦座像は台座から光背まで138m。今から約500年前に大雄院のお寺から信州のお寺に贈られたものが、縁あって戻ったものである。 煙害を防ぐために大正3年に建設された当時世界最高(155.7m)の大煙突は、平成5年2月に倒れ、3分の1の54mとなった。右下に阿呆煙突が見え、煙害対策の歴史を物語る。今はないがその頃は神峰山の稜線に百足煙道、中央に八角煙突があった。


椢平の三夜尊 加性の三夜尊
両所とも二十三夜尊の石塔と庚申塔が一緒にある。この辺では「サンヤサン」と呼ぶ。陰暦二十三日の夜にお籠もりをして月の出を拝む「三夜待」 「三夜講」と庚申の夜、申の形の神を祀り供物をして夜明かしをした「庚申待」の風習のなごり。暫く前までは、あちこちにそのためのお堂があった。加性の庚申塔は約180年前のもの。


新町の地蔵堂 御休み処
地蔵橋のたもとにお堂があり、いくつものお地蔵さんが集まっている。子育延命の御利益がある。宝珠観音の像は昭和32年12月17日開眼。 かみね公園脇の社は拝殿。奥の院は神峰山山頂。創建は古く伊邪那岐命、伊邪那美命、熊野?樟日命を祭る。大新橋の袂には大祭でご出社の時のご神体を出迎える御休み処がある。


徳川斉昭歌碑 大雄院経蔵
幕末の水戸藩主徳川斉昭が、天保4年8月領内巡視の途中杉室の大雄院に立ち寄り詠んだ歌「山水を筧にわたすそれよりもあやふかる世はのがれてぞすむ」が、石に刻まれている。場所は日鉱金属・大雄院事務所の一角。 江戸時代、杉室にあった天童山大雄院の寺院配置図には、本堂の裏手、千年杉の前方に経蔵がある。これが今大雄院事務所の裏側に立つ白壁の土蔵である。軒先の瓦に400年前の領主佐竹侯の紋所、5本骨の扇に丸い月の「月白の紋」が浮出ている。


杉室水穴観音 坐禅石(蒲団石)
元は宮田川の岸辺の横穴にあったもの。道路の拡幅、舗装に伴いその穴が埋められ、大雄院駐車場の先の左の崖の金網の中に移された。千手観音の由来書があるが昔は俗称穴観音と呼んだ。 座禅石(布団石)南極寿星禅師が田尻の度志観音に参籠中、白馬が現れその導きで宮田川杉室にいたり天童山大雄院を創建した。


日立製作所創業小屋跡 鉱山電車軌道跡
日鉱金属の大雄院駐車場の一角に日製・創業小屋跡の石碑がある。小平翁達が、その小屋で初めて自分たちの設計で5馬力のモーター3台を製作した記念すべき場所である。その小屋は日製日立工場内に復元されている。 昭和35年までの52年間、大雄院と助川(現シビックセンター)の間を鉱山電車が人と鉱石を運んだ。1日平均6千人を乗せ、無料の電車で有名だった。その軌道跡が西側の山裾に見られる。


大雄院小学校跡 武道館(元共楽館
大雄院に製錬所が作られ、周辺に従業員が住み始め、明治42年に大雄院小学校が作られた。最盛期には、1200人の生徒が在籍した。昭和54年、児童数の減少により閉校。その記念碑が県道側の橋のたもとにある。 大正6年に歌舞伎座を模して日立鉱山が建て、芝居・映画・浪花節・演芸と、大正・昭和期に日立の文化の中心となった。正月・お盆の各3日間の興行は、近郷近在の人々であふれた。昭和3年から戦後まで、小学生を対象に毎月催した映画会の恩恵を受けた人は多い。昭和42年市に寄贈され現在は武道館として使用されている。