豊浦学区まちづくり推進会

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海と緑輝くふるさと豊浦
ふるさと豊浦のあらまし
 海洋性気候の影響で温暖な豊浦には、縄文時代の昔から人々が住みつき、丘陵地帯を中心に狩猟や採集の生活をしていました。そのうち海面が後退して今までの海底が陸地になると、水田耕作の方法を身につけた人々が平地で暮らし始めました。
 やがて清らかな泉「国井の井戸」を囲んで、次第に集落が形づくられました。川尻村の古名「国井浜」の起こりです。人々は鎮守を建て、神を祭りました。
 川尻の浜は断崖が北風を防ぎ、筈磯が防波堤となる自然の良港でしたから、沿海漁業が盛んになったころから漁師が多く集まってきて、海に沿った地域に住むようになりました。川尻浜の漁獲量は一段と高まり、特に江戸時代の後期に結成された仲買人「五十集屋」仲間によって加工施設や販売ルートができてからは、他の浜の漁船も川尻に水揚げするようになって、川尻は活気ある漁港になりました。
 川尻名産の鰹節、乾鮑、塩辛の名も次第に広まり、ヨード、貝ボタンの製造業も興りました。様々な職人も住みついて、商店が栄え、劇場がにぎわい、川尻は近郷近在の中心の街となりました。加えて明治以後、栃木、群馬の養蚕農家が講を組んで蚕養神社の参拝に来るようになると、川尻海岸の絶妙な風景と白い砂浜は、参拝後に海水浴などを楽しむリゾート地となり、街中に旅館が建ち並びました。
 明治22年、川尻村は折笠、砂沢2村と合併して豊浦町となり、なお発展を続けていましたが、昭和20年米軍の焼夷弾攻撃により、約8割の家屋を焼失しました。
戦後、昭和31年、豊浦町は、日立市に合併しました。

茨城百景川尻海岸
 川尻海岸は古来景勝の地として知られ、常陸風土記にも記述があります。明治時代に川尻八景「蚕宮の避暑、水門の帰帆、松崎の仙境、不動岬の夫婦松、川尻二見、小貝浜の干潮、御番山の秋の月、筈磯の漁火」ができ、大正時代には絵はがきが発行されました。
 この海岸景観は、昭和25年に茨城百景に選定されています。二見岩を背景に出船、入船の躍動するさまは、わが町のシンボルといえます。

海鵜渡来地
 小貝浜一帯は断崖が続き、渡り鳥海鵜の憩いの場となっています。海鵜の佇む姿は可憐で趣があります。この地は昭和31年に県の天然記念物に指定され、平成元年には海鵜が市の鳥に選定されました。長良川の鵜飼いの鵜はここで捕獲されたものです。

礒の香漂う遊歩道
 蚕養神社から小貝浜までの遊歩道は、潮の香が漂い風光は絶妙です。コースは変化に富み、うっ蒼たる樹林をぬけると、茨城百景碑や、波切不動尊堂、灯台等が点在しています。段だら坂を下ると視界の開けた小貝浜へ出ます。北側の坂道を上ると、伝説の「馬の足跡」に着きます。一帯は海鵜渡来地で、趣のある景観が楽しめます。

小貝浜海浜公園
 古より、景勝の地として知られる小貝浜の風光は明媚です。波濤砕ける断崖に松の緑が調和し、二見岩が映えて絶妙な景観を呈しています。干潮時には、きのこ状の岩の群が見られます。砂には紅色の小貝が無数に混じり、赤味を帯びた砂浜になっています。

伝説の馬の足跡
 小貝浜の北の松林の中に、径50m深さ30mほどの、巨大な海蝕洞があります。ここが伝説の「八幡太郎の馬の足跡」といわれる所です。今は安全策として周囲が柵で囲われているので底を見ることはできませんが、潮吹き穴から波が入り込むたびに、波濤の響きが地底から聞こえてきます。

数多い古代の遺跡
 豊浦の遺跡は、砂沢から折笠にかけての丘陵地帯に多くみられます。最も古いのは堂の下遺跡で、続いて大近平、住の平、八幡平などがあります。中でも八幡平は縄文時代の中頃に大集落があったといわれ、今も宅地化されずに残る大切な遺跡です。ここで生活した人々は竪穴住居に住み、土器をつくり、狩猟や採集で得たものを火を通して食べていました。またこの遺跡では、後の奈良、平安時代の住居跡も発見されるなど、長い間人が住み続けた様子がわかります。

かんぶり穴横穴墓群
 十王川東側台地の川に面した斜面に、7世紀後半に作られました。日立市域では26基確認されていますが、うち3基の壁面には線刻の三角文様や赤や黒の彩色が施されており、たいへん貴重なものです。

村の起こり 国井の井戸
 十王川下流南側の住宅地にあり、川尻地区の最初の集落「国井浜」の名の起こりになったといわれる井戸です。清らかな水が湧き、近隣の人々に使われていましたが、数十年前に枯れ井戸になってしまいました。

黒船見張り 御番山
 
古くは矢筈山と呼ばれていましたが幕末、近海にたびたび現れる異国船を見張るため、遠見番所が置かれてから御番山と呼ばれるようになりました。海岸に面した崖の洞は年貢米の貯蔵庫として使われたもので、年貢米はここから船に積まれ、那珂川を経て水戸へ運ばれました。

養高園
 政治家・大津淳一郎の貴族院議員勅選を記念し、1928年(昭和3)に郷里の人々が造りました。園内には鈴山記念館を中心に望楼や記念碑などが建てられました。丘の上からは東京の方角をにらむライオン像があり、この像は本人の希望で「郷里の青年がライオンのように力強く努力するように」との意味を込めて造ったといわれています。今は5基の碑とライオン像だけが残り園全体が個人所有となっています。

八幡太郎の伝説

 折笠の名の起こりは、八幡太郎義家が奥州下向のおり、人々がここに出迎え、笠を脱いだので名付けられたと伝えられています。
 折笠にはこのほかにも義家伝説がたくさん残っています。「館の平」は義家がしばらく留まった所、「新旗」は新しく旗を作った所、「鍛治打」は鍛冶屋をよんで武具を作った所、「経の打」は賊徒調伏の為に経を読んだ所、「仮宿」は仮小屋をかけた所と伝えられています。「石の入の弓弦石」は義家が弓を張った石と伝えられていますが、現在は折笠スポーツ広場の前庭「矢筈石」という名で保存されています。

お雉さまの話
 昔、兄と妹が仲よく暮らしていました。あるとき妹が日が暮れても田植えをしていたので、伊福部の神(雷)が怒り、雷を落として妹を殺してしまいました。兄が妹の仇を討とうと雷を探していると、一羽のキジが飛んできて、雷が隠れている伊福部岳の洞穴へ案内しました。兄が刀をふりかざして雷を切ろうとすると、雷が「後々の世まで子孫の皆さまに雷を落としません」と命乞いをしたので許してやりました。それから後、川尻ではキジをお雉さまと呼び、雉を食べなくなりました。

金色姫の悲話伝説
 昔、蚕養浜に繭の形をした船が流れ着きました。中にいた姫は名を金色姫といい、天竺の大王の娘でした。継母に憎まれ、いじめられていた姫を見かねた大王が、慈悲深い人に助けられることを願って海に流したのでした。この地の神官権太夫は5年間慈しみ育てましたが、姫はある夜泣きながら「私の命は今宵限りです。私は神のお告げにより、蚕に生まれ変わり、蚕養の道を伝えなければならないのです」と述べて天に昇っていきました。

漁業
 川尻村、豊浦村は古くから漁業が盛んでイワシやカツオがたくさん獲れました。徳川光圀(黄門さま)も巡村の折、舟に乗って鰹漁をご覧になりました。1805年(文化2)には五十集と呼ばれる魚の仲買の株仲間が作られ、1826年(文政9)にはその数176人となりました。魚は鰹節や干物など加工品としても売られ、五十集屋の手により棚倉や郡山など水戸領外へも運ばれました。加工品のなかでも川尻村の鰹節、塩辛と肉醤は有名で、特に肉醤(鰹の生肉を叩いて作る塩辛の一種)は、水戸徳川家から将軍家への献上品となっていました。


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