岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会『きららさんのページ――その3』
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- 『70歳になって―2度目の高校生気分』 Click ..
- 『中学時代の思い出』 Click ..
- 『蛙は冬眠中!』 Click ..
- 『雪国の冬』 Click ..
- 『クリスマスと我が思い出』 Click ..
- 『私の「クリスマスプレゼント」余談』 Click ..
- 『小学校時代の遊び―お手玉とりの歌から』 Click ..
- 『お手玉の歌ほか』 Click ..
- 『「ずうっとずっと大好きだよ」そして「らら、本当にごめんね」』Click..
『70歳になって―2度目の高校生気分』
1週間ほど前、ついに70歳台に突入した。70といえば昔なら「おうな」といわ
れた歳かなあ?「おうな」=辞典でひくと、「としとった女、老女」とある。「とし
とった女」はともかくとして、「老女」とはまたあんまりな・・・。今思えば、孫に
「おばあちゃん」と言われたくなくて「あ〜ちゃん」と呼ばせているなんて、とんで
もない戯言だったなあと思わずにはいられない。 ..
前置きが長くなったが、人生70年、来し方を振り返ってみると、まず、学齢前の
幼少期のことは、ほとんど記憶なし。次に小学生をも含めた学生時代。これは、卒業
後も時々クラス会があったりするので、我が人生の1ページにはちゃんと入っている。
ところが、高校時代は、当時の人と会うことも話すこともなく、私の人生では、スト
ンと抜け落ちた状態であった。学生時代を過ぎて、人生は、就職、結婚、子育てへ。
子育ては仕事との両立であった。両立とはいっても、自分の子育ては人頼みが多くい
いかげんあったかもしれない。仕事は・・・といえば、自分がなりたくてなったもの
だから、私なりに充実して過ごせたと思っている。しかしこれは今だからいえるので
あって、勤めているときは結構忙しくつらいときもあったのは当然である。早く職を
退き、好きなように過ごせたらナンボかいいだろう!と思ったのも事実である。 ..
ところが、今現在、自分が待ち望んだその暮らしになり、読書をしたり、花を植え
たり、かつての同僚とおしゃべり会をしたり・・・とまあまあ楽しんではいるのだが、
まだまだ時間があまって退屈でならない。(いささか、題名からはずれましたね)..
そんな気持ちで暮らしている60台半ば、友達のMさんに「在京三五会」を紹介さ
れた。その時点では、パソコンはほとんどやらなかったが、何とか教えられながら、
ホームページをのぞいて見た。すると、なんと前述したストンと抜け落ちていた高校
時代の、同期生の名前が・・・、また、忘年会、ゴルフコンペのアルバムなどでは、
なぞ解きのようではあったけれど、それでも、何人かは見覚えのある、かつての少年、
少女の面影を目にした。本当に高校時代にタイムスリップしたような気持ちであった。
その後、私も恥ずかしながら駄文を投稿したりして仲間に入れてもらい、気分は全
く高校生・・・。おまけに、そのホームページを縁に高校時代には一言も言葉を交わ
したこともない方々とメールを交換したりして、今では退職後の楽しみの一つになっ
ている。 ..
昨年はまた、50年ぶりの同期会では多数の懐かしい方々との出会い、そして、乙
女の頃の仲間であり、せめて気持ちだけはいつまでも、乙女でありたいと願ってつけ
た「乙女の会」、そこでは、それまでお会いすることもなくきた多くの乙女と接する
機会をもてて、現在では人生から抜け落ちていた高校時代がもどってきたような気分
でいるのである。 ..
ところで、今ではほとんどの方が職を辞しておられると思うので、日常生活のエピ
ソードやら、ご自分の考え、高校時代の思い出話など、ホームページ上でもっと聞か
せていただけたら・・・もっと楽しい高校時代が戻ってくるのではないかな思ってい
るのだが・・・。 ..
長くなったが、半年ほど前の掲示板に載ったエピソードから・・・。 ..
(同じクラスになったことはないが)高校時代には、とてもまじめでスラッとした体
格のNさん、白亜名簿によれば大学の法学部の教授をされていたとか・・・。きっと
今では白髪のダンディな紳士であろうNさんが、いまや人なかで「じさま」とお孫さ
んに言われたというエピソードを読んで、やんちゃぼうずのお孫さんとそれを苦笑し
ながらみているNさんの姿が目に浮かび、今でもほのぼのとした気持ちにさせられて
いる。なんだか高校時代のNさんの姿にマッチしないなあと思いつつ・・・。 ..
『中学時代の思い出』
つい先日、中学校(盛岡市立下橋中学校)時代のクラスメート4人でランチ&おし
ゃべり会をしてきた。いろいろ懐かしい話が出たが、その後、私が思い出したことも
含めて箇条書きにしてみました。村野井さんも、下橋中学校出身(註)だということ
ですし、まだまだ共通の思い出がある方がいらっしゃるかも知れません。 ..
1、下橋中学校は、当時大規模校、学年10クラスあり、1クラス55人以上だっ
た。音楽コンクールでは、いつも入賞していたし、朝会で(校庭でだった)歌う、
全校生徒1500名以上による校歌も圧巻だった。私は、2年のとき転校してきた
ので、初めてそれを聞いたときは、ただただ素晴らしいと思った。 ..
2、フォークダンス 運動会ではフォークダンスがあった。練習のとき、あまり好
きでない?男子とは、指先ばかりちょんとあわせて踊った。今思えば「いじめ」か
も・・・。なおこれは私だけではない。本当に申し訳ないことをした。 ..
3、修学旅行 北海道に行ったのだが、洞爺丸の事故が1,2年前に起こったばか
りで親はずいぶん心配したが、私は学ぶより最高楽しんできた。2クラスずつ5日
間で行ったと思う。お土産には缶に入った「津軽の水あめ」、お酒の好きな父のた
めにチョコレートにウイスキーの入った「ウイスキーボンボン?」を買ってきた。
父には「川徳でも売ってるよ」と笑われたが、私は初めて目にした物だった。ちょ
っと純情? ..
4、薪隠し事件? その頃は、薪ストーブだった。クラスに1日分いくらと、制限
があったかどうか定かではないが、昼休みにそれ以上を教壇の下に隠した。欲張り
すぎて教壇が上がってしまい、平らにならないので、5時間目のベルは鳴るしであ
せった。なお、これをしたのは、女子数名。私も(向井田さんはどうかな?)加担
したが、怒られた記憶がないので、隠しおおせたのかも・・・。男子はまじめだっ
たのか、昼休みなので体育館で遊んでいたのか混じってはいなかった。 ..
5、校内マラソン大会 私は持久力なく先生がいないときは歩いてばっかりだった
が、向井田さんはまじめに走ってかなりいい線をいったそうだ。私は「短距離は速
い」と見栄をはったが、向井田さんには、「60年近く経って初めて知った」と言
われてしまった。 ..
6、ボランティアで(当時は奉仕活動といった)掃除? 岩手公園が近いので、秋、
落ち葉の頃に掃除に行った。・・・というか、私はあまり真剣に掃除した記憶がな
い。きれいな落ち葉で遊んでいたかも知れない。「ほうきを投げて遊んでいた」と
いう友人が4人の中にいたけれど。 ..
7、ほうきにする竹取り? 岩山に庭ぼうきを作る竹を取りに、みんなで行った。
竹を取りに行ったことは覚えているが、針金でしばって、ほうきを作った記憶はな
い。誰が作ったのだろう。用務員さん?それにしては、多過ぎますよね。各自で作
るのだっただろうか? ..
8、担任の先生のあだ名は「ナフタリン」といった。「ムシも好かない」からなそ
うだ。(・・・そうだ)というのは、私がつけたのではないから・・・。我々のク
ラス全部ではなく女子だけが言っていた。受験のめんどうもよくみてくれた謹厳実
直な男の先生で、本当は好きだったが、私はどうも付和雷同してしまういい加減な
女子だった。 ..
9、男子とは、ほとんど話しをすることがなかった。高校のときと同じである。け
んかをしていたわけではないが・・・。総じて男子はまじめだった。大人になって
からのクラス会で、ある男の人が「あの時、女子はこわかった!」と言っていた。
10、私はいくらなんでもここまではしないが、他のクラスの男子が映画館で胡椒
をまいて怒られた。担任の先生が我々のクラスにも「人に迷惑をかけることはする
な」と注意した。そのとおり! ..
*4人で4時間もしゃべって、まだまだあるんだけれど、この辺で・・・ ..
*管理人さん、掲示板に長々書いてすみません!「ここじゃない」と言われてまし
たけど。 ..
――投稿日:2012/03/20――
(註):筆者の勘違いで、実際は上田中学校出身。
..
『蛙は冬眠中!』
裏庭の木々の葉がいっぱい落ちて始末に困りました。歌の如く「落ち葉焚き」もし
たのですが、その後、雨が降ったりしてぬれ落ち葉になってしまい、なかなか燃えま
せん。それで、庭の隅の比較的やわらかい土のところに4,50センチくらいの穴を
掘り埋めることにしました。 ..
・・・で、土を掘ったら、何とその穴で蛙が冬眠しているではありませんか! 幸
い、スコップにはあたらず、蛙は掘った穴の壁面のところで眠ったまま・・・。冬眠
中の蛙を見るなんて初めての経験です。 ..
ビックリ仰天の私は、そこに埋めようとしていた落ち葉を入れてすぐ土をかぶせま
した。多分、蛙は無事このまま、春まで眠ってくれることでしょう!(驚かしてごめ
んね!) ..
管理人さんの住んでおられる所は、ここ岩手と違って暖かいので蛙はまだ冬眠せず
起きていたんですね。 ..
ちなみに、確かに私も子供のころ、蛙を「びっき」といいました。懐かしい! 近
頃の子どもはいわないみたいだけどね・・・。 ..
――投稿日:2012/11/29――
『雪国の冬』
向井田さんしばらくです。岩手山のアルバムありがとう。 ..
♪大寒小寒、山から小僧がないてきた ..
何といってないてきた ..
寒いといってないてきた♪♪ ..
お山はもちろん、里もずいぶん、寒くなりました。大きい道路こそ除雪車がくるも
ののあまり歩かないところは、この写真の右側の状態ですね。 ..
(歩けばぐちゃぐちゃ、凍ればすべる・・・)
我が家の裏庭に柿の木があります。昨年から柿の実を取って「干し柿」作りを始め
ました。今、その木にカラスが飛んできて取り残した柿の実をついばんでいます。..
♪カラス鳴きて木に高く・・・♪♪ 窓から、冬景色のそれを眺めているのはなか
なか風情があるものですが、さらに厳しい寒さがやってくると思うと、気持ちが重く
なります。 ..
日本海側のように、屋根からの雪下ろしがないだけ楽かも知れませんが・・・。..
以上、「蛙の冬眠」につづき、ローカル話、第2話でした。 ..
――投稿日:2012/12/15――
『クリスマスと我が思い出』
今朝(12月25日)私がまだ布団の中でぐずぐずしていると、枕元に置いた携帯
がブーブーと鳴った。(誰から?)と取り上げてみると、孫の○○から・・・。 ..
「あ〜ちゃん!○○にサンタさんがきたよ!!おまけも3こついてるよ!」と興奮し
た声。「え〜っ、すごいね!何が来たの?」「なんとかかんとかのゲームとあとなん
だかのおまけ・・・」(残念ながらあ〜ちゃんはプレゼントの名前が横文字でよく分
からない) ..
それから5分位上ずった声の話が続き「じゃあ、保育園に遅れるからバイバ〜イ」..
ついでに、わが子の話。 ..
幼稚園から小学校低学年のころまでは、息子、娘はしっかりサンタクロースの存在
を信じ、クリスマスには、起きるとすぐプレゼントを見つけ、「お母さんっ、○○に
サンタクロースが来たぁっ!」と大興奮!台所でご飯支度をしている私の元へプレゼ
ントを胸に駆け込んで来る・・・。 ..
私も、クリスマス翌朝のこの子ども達の反応が面白くて、今でも幼いわが子のほほ
えましい思い出として残っている。 ..
さて、最後は私自身のこと。 ..
小学校の頃しか覚えていないが、当時はおもちゃなどほとんど買ってもらえなかっ
た。唯一の楽しみは、小学館の月刊雑誌「小学○年生」を買ってもらうこと。そして、
それにも12月号にはサンタクロースの記事やクリスマスに関する付録がついてい
た。 ..
また、学校でも音楽の時間に ..
♪♪サンタクロースのおじいさん、 ..
ぼくのうちにも来ておくれ、 ..
くつした下げて待ってるよぅ♪♪ ..
という歌を習った。家に帰ってきてからも何度も歌ったのでいまだにそのメロディも
はっきり覚えている。それで、私は半信半疑ながらも、(イブにはくつしたを枕元に
おいておくと何かプレゼントがくるかもしれない)と思って寝たのである。そして..
翌朝・・・、当然かも知れないが枕元においたくつしたには何も入っていなかった。
(せめて鉛筆ぐらい入れておけばよかったのに 我が家にはその余裕もなかったのか
な?) 私もがっかりだったが、ほんとはこんなにプレゼントを心待ちにしている我
が子を見て、親も心の中では不憫に思っていたかもしれないけど。 ..
――投稿日:2012/12/15――
『私の「クリスマスプレゼント」余談』
鈴木さん、内藤さん、クリスマスについてのコメント、興味深く拝見しました。我
々の子ども時代はクリスマスプレゼントなんてなかったという話に(我が家だけかも
・・・)と思ったりしていたのでやや安心した次第。また、管理人さん、投稿欄にア
ップ感謝。 ..
ついでに、30年以上も前の子供たちに対する私のクリスマスプレゼント余談を一
つ・・・。(娘には今でも「あれにはがっかりだった」と言われている) ..
息子、娘が小学校4、5年生のころであろうか?(今年のクリスマスプレゼントは
何にしようかなあ・・・)としばらく考えた末(そうだ!子ども達は2、3年前まで
ジグゾーパズルがすごく好きだった!)その頃はやったキャラクターもののパズルを
何種類かもっていてよくそれで遊んでいたのを思い出したのである。 ..
当時、私には「子ども達の要望を聞き、それをサンタに頼んであげる」という発想
はなかったので、彼らの様子を見て欲しそうなものを考えたり、また、プレゼントに
は予算ということもあるわけで・・、一方的に(今年はこれにしよう)と決めていた
のである。 ..
そんなこんなで、その年は、息子には「世界地図」、娘には「日本地図」のパズル
をクリスマスのプレゼントとしてやることにした。これこそ、私の好きな?「一石二
鳥」というものだ!と思ったりして・・・。 ..
さて、翌朝の彼らの反応。 ..
見つけたときの「やったあ!」に続き、それを開けたとたんの「ええっ!」(あとは
絶句・・・)即ち落胆のあまり言葉も出なかったらしいのである。 ..
せっかくいい考えだと悦に入っていたサンタクロース母ちゃんも、その反応にはガ
ッカリするばかりだったのは言うまでもない。「一石二鳥」どころか「一石ゼロ鳥」
に終わったこの年の教育サンタは、子ども達には全くお呼びでなかったというわけで
ある。 ..
――投稿日:2012/12/31――
『小学校時代の遊び―お手玉とりの歌から』
我々の子どもの頃はおもちゃなど買ってもらうことはほとんどなかったが、では..
「どんなことをして遊んでいたのだろう?」とお正月の暇人は考えてみた。 ..
お正月には、女の子の場合「福笑い・すごろく・かるた・羽つき」など・・・。で
も、普段は「お手玉・おはじき」外では「缶けり・陣取り・ゴム跳び・縄跳び」など
が多かった。 ..
その中の「お手玉とり」で思い出したのだが、このときは、わけも分からず楽しく
歌った歌であるが、今思えばなんとも驚きの内容ではある。鈴木さんが書いておられ
たが、「玄関の屋根に穴が空いても青空が見えて楽しかった」てな感覚である。 ..
当時は戦争の影響大、戦後の生活は苦しくとも、子ども達は(少なくとも私は)そ
れを全然困ったとも嫌だとも思ってもいなかった。(それは、今の、物質的には「便
利で豊かな生活」を知らないからではあるけれど・・・) ..
さて、お手玉とりの歌に戻るが、今思うとギョッとするような内容、その歌詞は?
といえば・・・。 ..
♪♪いちれつ談判破裂して 日露の戦争はじまった ..
さっさと帰るはロシアの兵 死んでも尽くすは日本の兵 ..
5万の兵を引き連れて 6人残して皆殺し ..
7月8日の戦いに ハルピンまでも攻めていく ..
クロバトキンの首をとる 東郷大将万々歳♪♪ ..
こうして、最後までお手玉を落とさずに繰り続けるとその勝負は勝ちとなる。5・
6年になると大体4個のお手玉を使って競っていたが、この日本軍崇拝みたいな歌詞
は誰が作ったんだろう? ..
*おまけ 高校時代には次のようなことで、日露戦争勃発の年を覚えたたけど、皆
さんも同じかな?「一発くれよう、露にゲンコ」即ち1904年と。 ..
――投稿日:2013/01/03――
『お手玉の歌ほか』
気になって、「お手玉の歌」を検索してみました。すると、出てくるは、出てくる
は・・・「いちれつ談判・・・」のほかにもたくさんの懐かしいお手玉遊びの歌が。
また、「いちれつ談判・・・・」の歌の解説もありました。意味が初めて分かったも
のもありました。 ..
お手玉は、遊び方によって歌も異なりましたが、私が遊ばない方のやり方は、単純
な遊び方で技も簡単、5・6年になると、4つ(あるいは上手な人は5つ)を駆使し
て操る一人お手玉で競争した方が面白かったです。 ..
小学校に勤めていたとき、「昔の遊び」というところで、お手玉を子ども達の前で
演じてみせたが、3つはできたが4つはすぐ落としてしまった。子どもたちは、それ
でも「すご〜いすご〜い」の連発。思いやりがありますねえ。昔は3つでやるなんて
程度が低い方だったのに・・・。 ..
ついでに、まりつき歌も検索してみたら、これもたくさんありました。「いちれつ
は・・・」は、まりつき歌でも使ったとみえ、ここには楽譜もついてましたよ。 ..
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ..
お正月も終わりです。淋しいことに今年は我が家には誰もやって来ません。「ホー
ムページの掲示板」だけが友達でした。 ..
ちょっとうるさかったかも知れませんね。陳謝! ..
――投稿日:2013/01/04――
『「ずうっとずっと大好きだよ」そして「らら、本当にごめんね」』
ららは、私の愛犬でした。娘の入院で三歳の孫を預かった時も相手をしてくれた穏
やかな気質のマルチーズの小犬です。 ..
そのららが、おとといの朝八時ちょっと前に亡くなりました。心臓病の薬を一年ば
かり飲んでいましたが、この秋ごろまでは元気でした。ところが、一か月くらい前か
ら、日中もベッドに入ってあごをそのふちに乗せ、じっと私の顔を見ていることが多
くなりました。親のききが亡くなるときもじっと見つめてばかりだったので、私は少
し不安な気持ちになりました。 ..
ところが、死ぬ前の日、いつにでもなくベッドから出て、部屋のあちこちを歩いた
り、私の前に来て「おすわり」をしてじっと私を見上げたりします。少しですが餌も
食べ水も飲み、おしっこもします。「らら、良かったね、元気になったね!」私は喜
びました。 ..
そして、その日の夜も九時半頃、お気に入りのソファーの上におすわりをして、ま
たパチッとした目で私をじっと見つめます。私は可愛くなってしばらくぶりに写真を
撮りました。夜十時になったので、「らら、ねんねだよ」とベッドに寝せて、毛布を
かけてやりました。そして、私も寝室に行きました。ところが、間もなくベッドを出
て、か細い声で鳴き、首につけている鈴を鳴らしながらその辺を歩き回っている様子
です。夫がトイレに起きたのでまた毛布をかけて寝せていました。 ..
夜中一時半(なぜか時計をみた)、また、ららの鳴き声と鈴の音が聞こえました。私
は起きて、ららを毛布にくるみ抱っこして、居間のソファーに座っていました。二十
分もするとららが鳴きやんだので、「らら、まだねんねだよ」いつものようにそう言
って、寝かせました。私もまた寝ましたが、ららはそれからもベッドを出て、歩き回
っていました。か細い声と鈴の音を聴きながら(起きようかな?)とも思ったのですが、
(そのうち寝るだろう、または夫がトイレに起きて寝せるだろう)と思って、起きませ
んでした。つまり、ららが必死で鳴いて訴えていたのに無視をしたのです。ららは、
それからも私を待っていたのでしょう。または、探していたのでしょう。 ..
翌朝起きると、なぜかららは洗面所にいておすわりをしていました。きちんとした
おすわりです。(寒いとこで〜)と思いながら、毛布にくるんで抱っこしてやると、
首がガクンとなりました。(え〜っ、まさかぁ)と思いましたが、まさかではありませ
んでした。ららは、私の腕の中で可愛い目をあけたまま、動かなくなりました。ほん
の数分の間にです。 ..
夜中から朝まで、私を探して歩き回っていたらら、ららは、私が起きるまで待って、
抱っこされて、ついに力尽きて亡くなったのです。私は、ららを抱っこしたまま一時
間は泣きました。(どんなに苦しかっただろう?どんなに淋しかっただろう?どんな
に寒かっただろう?)ベッドに寝せて毛布をかけて、顔をいつまでも見つめていまし
た。 ..
生前いくら可愛がったって、私は、肝心な時にららをほったらかしにしてしまった
たのです。今は、どんなに後悔してもららはもどりません。 ..
私はこれからも生きている限り、心の中でららに言います。「らら、ずうっとずっ
と大好きだよ。それから本当にごめんね」と。 ..
2014年12月24日 (水) 12時29分
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<<補遺>> ..

掲示板にまた長々と私事を書いてしまいました。 ..
あれに書いているように愛犬ららが亡くなりました。亡くなる明け方ですが、私は、
ららに、謝っても謝ってもし足りないことをしてしまいました。か細い声も、歩くと
鳴る鈴の音もまだ聞こえるような気がします。(何で起きて相手をしてやらなかった
のか?ららはお別れをしたかったのだろうか?)未だに後悔の涙が流れます。 ..
だけど、ららには何ももう分かりません〓 ..
そこで、以前、ららのことをちょっと書いたことがある皆さんの前で謝ったら、少
しは気がおさまるだろうか?と思って、贖罪のつもりで長々書いてしまいました。亡
くなる前夜の写真を向井田さんがきれいな写真にしてくれました。本当につぶらな瞳
で私を見つめ、その時は、間もなく亡くなるとは思いもしませんでした。いつものこ
とですが、掲示板に書く内容でないのにすみませんでした。 ..