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明治2(1869)年―昭和40(1965)年。山口県萩市生まれ。慶応義塾卒。日立鉱山創業者。 久原ははじめ貿易会社勤務をしていましたが、明治24(1891)年、藤田組に入社して、当時、閉山の危機にあった小坂鉱山(秋田県)へ赴任しました。 経営再建のため、多くの人材を集めて、銅の品位が低く捨てられていた黒鉱を活かす製錬に打ち込み、明治33(1900)年に「生鉱吹き銅製錬法」の開発に成功。大きな成果をあげて銀山から銅山として復興させました。 明治38(1905)年、藤田組を退社して、宮田川下流の鉱毒対策が出来ず経営者が次々と変わっていた日立村本山の赤沢銅山を買収して、日立鉱山を創業しました。 資金不足、煙害対策など試練の連続でしたが、小坂再建で得た銅山経営に関する最新のノウハウと自信、久原を慕って小坂鉱山から移ってきた「小坂勢」と呼ばれる人々の活躍で、 近代的な技術を駆使した大規模な鉱山・製錬所を建設すると共に、鉱毒問題を解決しました。そして、日立鉱山を先行する三大銅山(足尾・別子・小坂)に並ぶ銅山にしました。 銅生産量の増大に伴って精錬による煙害が広がるなか、被害補償を進めつつ、大煙突の建設で煙害解決、樹木が枯死した山々への耐煙木一千万本植林で緑の再生など、道義を基本方針とする煙害対策をしました。 「一山一家」という鉱山を一つの共同体とした考えの久原は、住居の無料提供、低価格の生活用品供給、近代的な病院の建設、子弟のための学校の整備、娯楽のための本山劇場と歌舞伎座を模した共楽館の建設、スポーツ・音楽の奨励など福利厚生にも力を入れました。 昭和3(1928)年、60歳で事業から身を引き政界に入りました。 |