世界遺産 富岡製糸場 |
|
---|---|
↑世界遺産に登録されて間もない富岡製糸場の入り口。 この場所の地図をGoogleMAPで観る ↑まずは入り口を入ると左手に検査人館があります。 検査人館は生糸検査を担当したフランス人の住居です。現在はここが券売所になっています。 ↑入り口を入って正面に見える大きな2階建ての「木骨煉瓦造り」の建物は東繭倉庫です。 乾燥させた繭を貯蔵した倉庫です。現在はパネルによる歴史の紹介や、繰糸作業の実演、映像コーナー、売店などが設けられています。 ↑明治五年(1872年)操業開始。 ↑繰糸場の外観。奥行きは140メートルもあり、中には繰糸機がずらりと並んでいます。 採光を良くするための大きな窓ガラスもフランスから輸入したもの。 ↑繰糸場の中へ。 ↑トラス式という構造の屋根組で、柱が無く広い空間を確保しています。 ↑ずらーっと並ぶ繰糸機。この繰糸機は昭和40年代に設置された新しいものだそうです。 ↑なにしろ、富岡製糸場が出来る前の日本の繰糸作業は、写真のような手動式の道具を使ってのものでした。 富岡製糸場の登場によって、生糸産業は大きく発展したことがわかります。 無料のガイドツアーによる解説です。 フランス人指導者のポール・ブリュナ氏と家族の住居です。高床式の木骨煉瓦造り。 ↑富岡製糸場の敷地の南端へ行くと、富岡製糸場の立地がよくわかります。 鏑川(かぶらがわ)を見下ろす高台にあり、風通しの良い場所です。 川の水を汲み上げて繭を煮たり、煮汁を川に排水したりしていました。 ↑ブリュナの住居、ブリュナ館は巨大です。相当な好待遇で雇われていたそうです。 富岡製糸場は、富国強兵と殖産興業を政策に掲げた明治政府が官営模範工場として創設したものです。 富岡製糸場が造られた目的は、生糸を輸出し外貨を稼ぐこと。全盛期には日本の輸出額の8割を生糸が占めるほどでした。獲得した外貨で軍艦などの武器を買い、日清戦争、日露戦争に勝利してきたわけです。 良くも悪くも、富岡製糸場が存在しなければ、現在の日本の姿は存在しなかったということです。そういう意味で、富岡製糸場の存在意義は非常に大きいですね。 | |
おぎのや本店 |
hiro's旅行記 TOP |
スポンサードリンク |
富岡製糸場・群馬の紅葉 目次 |
TOP 概要・吾妻渓谷 |
八ッ場ダム建設地 |
白糸の滝、碓氷峠 |
碓氷峠・めがね橋 |
碓氷湖、おぎのや本店 |
富岡製糸場 |
北海道編(8日間) |
東北一周編(7日間) |
東北被災3県(3日間) |
黒部立山編(2日間) |
北陸編(4日間) |
関西編(3日間) |
九州編(11日間) |
スポンサードリンク |
---|